我孫子の景観を育てる会 | 第52号 2012.11.17発行 発行人 吉澤淳一 我孫子市つくし野6-3-7 編集人 飯田俊二 |
シリーズ「我孫子らしさ」(28) 〜我孫子をふるさとに〜 柏原 健子(会員) | ||||||
●今回はちょっとコーヒーブレイク、私の我孫子に寄せる思いを書いてみます。 ●東北の田舎育ちの私には、昭和45年、夫の転勤で越してきた湖北台というニュータウンの暮らしに馴染めなかったせいか、1週間ほどして体調を崩してしまい、十数年不調に悩まされてきました。そんな事情もあり、湖北台地区からほとんど出ず、旧市街とは無縁でした。転機となったのは平成17年夏、三樹荘の清掃ボランティア活動に参加し、その後「我孫子の景観を育てる会」に入会したことです。 ●「すべての行事に参加」をモットーに、自分でも驚きの行動的な生活が始まったのです。歴史景観散歩は第4回から最終10回まで参加し、我孫子の歴史、地理、景観等について学び、また、いろいろな行事にも参加して、我孫子の街が深く、広く見えてきて楽しくなりました。私にとっての我孫子とは「住めば都」の諺通り、四十年余を経て、居心地のよい"ふるさと"になった事でしょうか。 ●私の生まれ育った宮城県亘理町の太平洋に面した平坦な地に比べ、我孫子は台地に立地する暮らしのためか、個性ある多くの坂道、見上げる斜面林の緑、中里あたりの里山の風情と変化に富んでいて、何より利根川の流れが阿武隈川を彷彿させてくれて嬉しくなります。また、私にとって広大な田んぼと共に手賀沼は水鳥をはじめ陸の鳥も、目の届く距離で観察できる貴重な癒しの場所でもあります。この水辺を活かし、水と鳥と花との共存する活気ある街を夢見ています。 ●私の故郷の話をします。宮城県亘理町は、去年3月11日の東日本大震災で津波に襲われ、町並みは一瞬にして消滅しました。 |
私がこの夏、震災後初めて帰省して見たものは、海に近い家々は土台のみを残して、丈高く夏草が生い茂る原野となり、海も川も見えなくなるほどの高さに、防潮堤工事が進んでいた事でした。現地は地盤低下のため非居住地区となり、帰省のたびに迎えてくれた風景はなくなってしまいました。今は我孫子が唯一のふるさとなのです。仮設の町で東北の人々は強い絆で頑張っています。 私はこの我孫子で出会えた人々との絆を大切に暮らしていきたいと願っています。 |
|||||
|
||||||
■もどる | ■「私の我孫子らしさ」シリーズの目次へ |