我孫子の景観を育てる会 | 第55号 2013.5.25発行 編集・発行人 吉澤淳一 我孫子市つくし野6-3-7 |
シリーズ「我孫子らしさ」(31) 「住めば都」50年の歳月 寺尾多津枝(会員) | |||||
●私の生まれは東京都本所区横川橋(今の墨田区)で、その後神奈川県藤沢市に疎開しそこで育ち、53年前この我孫子の地に嫁いできました。藤沢市鵠沼は父方の祖父が住む地で、江の島、鎌倉は我が庭の気分で過ごした青春時代でした。かつて我孫子は文人たちの別荘地として有名で、北の鎌倉と言われて居りましたが、都会育ちの私にはびっくりする程の田舎町でした。駅に近い所なのに田圃あり雑木林ありで、我が家の裏を走る常磐線の蒸気機関車が、夜12時近くになるとガチャガチャガッチャンと貨車の連結の音、電車は山手線のお下がりで、(当時省線と言ったと思う)チョコレート色した電車、線路は上下2本、旧日立精機沿いの桜並木、工場内の銀杏の並木を覚えています。 ●街に買い物に出れば、寺尾の嫁とわかっているのに「おめさん、何処から来たね」と、職務質問の様なお年寄りの問いかけ、近隣からの縁組が多い中で完全に他所者扱い。町役場は学校の講堂の様な板張りの床(現在寿保育園がある所)。市外に電話をかける時は、交換台を通して呼び出してもらう。旧水戸街道沿いの我孫子宿の名残り、脇本陣、旅篭、道路に面したつるべ井戸等の中で、嘉納治五郎の学園建設構想の農園跡の分譲地白山が、ただ一つ文化の香りがする方々が住んでおられたのが救いでした。
●昭和37年頃より、船戸地区(現在の船戸の森の手前)の雑木林が切り開かれ、55軒の分譲住宅が出来ました。それでも武者小路実篤の邸跡への林の小路、ハケの道沿いの庄屋さんの茅葺の屋根、子どもたちが葺き替え時に使う茅の中で飛び跳ねて、大切な茅を台無しにして家主さんに迷惑をかけた話、夕方手賀沼近くの田圃で蛍狩りをしたり、のどかな我孫子町を懐かしく思い出します。 |
●先日、浦安に住む長女が我孫子に帰って来た時に、「大きな木が所々にあって新緑に溢れ本当に良い所に育ったわ」と言っていました。まだまだ緑が沢山の我孫子は「景観」の宝庫だと思います。 ●手賀大橋から見る、手賀沼の水面に朝日が昇り、そして夕日が落ちる美しさ、遠くには富士山、近くに筑波山が見え、53年前ただの田舎町と偏った目で見ていた我孫子ですが、今はインフラが整備され、高層が立ち並び少々都会風になりつつある中で、「住めば都」の諺通り50数年、終の棲家になるであろう我孫子・・・。 ●文化意識の高さ、住民意識の高さ、多くの人との関わりも大事なことでした。小中学校のPTA、ボーイスカウト、ボランティア、奉仕活動で沢山の方々と知り合うことで、充実した人生が出来たこと、何だか何時の間にか地元住民に間違われる今日この頃、私は素晴しい我孫子で出会えた人々に感謝をもって暮らして行きたいと願っています。 写真は「我孫子―みんなのアルバムより」 左下 嘉納農園(〜昭和13年) 右上 寿下ハケの道(昭和37年頃) |
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