我孫子の景観を育てる会 景観あびこ_title 第63号 2014.9.20発行
編集・発行人 吉澤淳一
我孫子市つくし野6-3-7
村山正八氏ご逝去
  村山正八(号・祥峰)先生がご逝去されました。7月25日のことでした。
  享年百一、当に"巨星墜つ"といえましょう。謹んでご冥福をお祈りいたします。
  先生は、三樹荘当主として景観を守り、郷土史家、歌人、画家として我孫子の文化を支えてこられました。しかし、ここ数年心臓を病み、最近は入退院を繰り返されておられましたが、遂に帰らぬ人になられました。
  思えば平成13年に、三樹荘隣接の天神坂が市の景観賞を受賞してから、先生と当会との交流が始まりました。平成17年には、天神坂と三樹荘の景観維持を支援する清掃グループ「三樹会」を、当会を中心に設立し、今日も尚その活動が続いています。
  ここに、生前ご厚誼が深かった冨樫道廣さん、三樹会の世話役である瀬戸勝さんに、先生を偲んでいただきました。
(会長 吉澤 淳一)
追想録 ― 村山祥峰先生を偲ぶ                   冨樫 道廣(会員)
  先日、村山先生がお亡くなりになったことを知らされた。もう百歳を大幅にクリアされたことだと思っていたところだった。今さらながら私たちと我孫子の景観とのかかわりをふり返ってみると、そう簡単に言いつくせるものではない。

  私達の会が発足する前から、前後だけでなく左右に目をくばり、景観の「先達」として、先導的な行動をされていたのである。

  我孫子の景観を語るとき、手賀沼は絶対である。その手賀の海を見る、最前線の一等地といえる三樹荘の当主という宿命も背負っておられたからであった。

  先生と景観とのかかわりを言うならば、それは第5回(平成13年)の天神坂の景観賞受賞が具体的なスタートと言うべきであろう。その時の評価には「この坂は白樺派の文人が集まった三樹荘の横にあり、現在でも坂の両側の村山氏、井手口氏の努力で美しい坂道となっています。また坂自体も自然石で整備され、文化のかおる坂道となっており、多くの市民の散歩道として親しまれていることも高く評価されました」(都市計画課)とあります。

  先ずは私たちの足もとから見ていけばそれは当然「景観あびこ」にならざるを得ない。その創刊第1号(平成14年3月29日)に先ず登場してもらっている。

  「景観あびこ」を会の機関紙として、役所から天下りの「景観」という耳なれない単語を一般市民に興味を持ってもらう広報活動が第一に必須と考え、それには少なくとも社説ならぬ主体者の主張が必要だろうからと、編集の清水さん、織田さんを引っぱり廻して、我孫子の景観の要点となる所の古くからかかわり管理している人々を目当てにお願いして、「景観を守る人々」〜インタビュウが始まったわけである。

  その第一番目が村山先生になったわけだが、それも景観賞などがあった自然のなりゆきだった。

  話は先生が戦前、沼のほとりを歩いていて、空き家になっている三樹荘を見つけ、入ってみると、庭の広さは600坪ほどしかないのに、その眺望は10万坪にもなるという奥さんの示唆に心が動いたが、話す相手も見つからず、不動産などという商売もない時代のこと、川原という人(恐らくは今の我孫子不動産)に欲しいと意向を伝えておいたところ、戦争が終わって、軍令部総長でもあった谷口大将の息子さんから買うことが出来たのは幸せだった。

  向い側の嘉納治五郎別荘跡は「ヘチマコロン」から県会議員の井手口氏の所有になっていた。
  とにかく我孫子の別荘第一号は、講道館の嘉納師範で熊本の五高、一高、高等師範の校長を長く務めた教育者であった。

  その嘉納がこの地点を別荘に決めた経緯など知る由もないが、勝手に想像してみると、白山に広大な土地(後の嘉納後楽農園)を求め、七年制の高等学校を創設しようとしていたことや,IOCの委員で、東京オリンピック(冬季大会は札幌)を誘致して、手賀沼をボートレースの会場に計画していたことなど考え合せると、我孫子、手賀沼に強い執着があったと思わざるを得ない。その上、熊本の五高の教え子で、後、文部秘書官にした村川堅固を呼び寄せたり、隣には、三本の椎の大木を見つけて「三樹荘」と命名、そこに甥の柳宗悦・兼子夫妻を住まわせるに至っては、レーピンの言う「まちの景観はそこに住む人々の心による」という、その通りのまちづくりを始めたと思わざるを得ない。

  たまたま嘉納のまちづくりが戦争によって失敗に終ったところを、村山先生が継承したとは言い過ぎだろうか。
庭のあづまやでくつろぐ、ありし日の村山先生(2003年11月)
■天神坂と三樹荘レポートへ

  これが経済成長の渦中にあって、山くづしや、マンション建築などの嵐に巻き込まれたとしたら、今見る、三樹荘、斜面林の緑はない。改めてその広大な面積を管理してこられた先生に我孫子市民として感謝せねばならないだろう。

  それでも危機はあった。生涯学習センター・アビスタの建設である。市の公共施設であるという大義名分のもと、地域市民の合意が必要とばかり、10万坪の手賀沼の眺望をうばう計画を、設計図やタイル、壁土の色見本をもって、市役所の役人達が日参したものである。それでも先生は公共のためなら、個人の利益など優先させるべきでないと広い心で同意されたのには敬服したものである。今であれば「景観利益」保護のためにも、かなりの保証がもらえたのにと笑い話の後日談にはなっている。

  ここに当時の写真がある。千葉銀行のPR誌で「ひまわり倶楽部」というのがあるが、その企画で「成田線開通100周年記念」というくくりで「白樺派のロマンと郷愁の旅」というのがあった。(平成13年6月)

  モデルは田辺靖雄(ヤッチン)と九重佑三子夫妻である。その中で天神坂(改修してすぐ)や三樹荘もコースに入って、案内役は村山先生。ヤッチンが大の字になって椎の大木によりかかっている。その大木のバックに手賀沼が見えているのである。これが柳宗悦が感激した、朝日、夕日に映えた手賀沼だったことがよくわかる。しかしこれは今はない。

  紙面の、限られた中で忘れてならないのは、私たちの大きな年中行事に日立総合経営研修所の庭園公開があるが、その3回目の当日、研修所の一室を借りて「我孫子の庭園について考える」と題して、村山先生の出席をお願いして、根戸城址の日暮朝納さん、日立の森マネージャーの三人で座談会を催した。私有財産の広大な庭園を美しく手入れをして維持しているご苦労をお聞きしたものである。その長年の努力に百人近く集まった参加者はみな感激の体だった。

  今日、経済学でいう「公共財」という言葉がもはや死語の感じがしてしまう。すべての財には所有者の名前がついて、自治体であろうが、国であろうが、その管理は地権者に依存せざるをえない。しかし私的財産であっても、天井の空間に境界は見えないのである。それを長年にわたって手入れをしてくださった村山先生には我孫子市民全員で感謝、お礼を言わなければならないだろう。

  「先生ありがとうございました。ご遺志は私たちが受け継ぎます。あとはゆっくりお休みください」

■もどる