我孫子の景観を育てる会 景観あびこ_title 第64号 2014.11.15発行
編集・発行人 吉澤淳一
我孫子市つくし野6-3-7
シリーズ「我孫子らしさ」−36− 最終回                   吉澤 淳一(会員)
手賀沼ごしに、はるか富士山を望む我孫子の街並み
私が初めて我孫子の景観に触れたのは、34年前に大手デベロッパーが作成した分譲住宅のパンフレットである。そこには点在する住宅地と、それをとり巻く緑、キラキラと輝く手賀沼の俯瞰写真が載っていて、それぱ緑と水辺のまぢのイメージで、魅力的な景観であった。いろいろな条件を勘案し、1979年にここを終の棲家と決めて、爾来35年の我孫子生活である。

やがて、定年を迎える頃、我孫子市が景観に関する講座を開催したので、興味を持った私は参加してみた。それまでにも休日を利用して、市の「道路愛称検討委員会」に加わったり、当時は耳慣れない「ハケの道」を踏査したりして、定年後の地域活動の視点を、僅かながら持てるようになっていた。

景観の講座が終わると、市の勧めもあって、有志10数人で「我孫子の景観を育てる会」を立ち上げた。立ち上げたけれど、何をしていいのかわからない。皆口々にに市内の景観の悪さをあげつらう日々であった。私も例外ではない。「人々は、一応は風光明媚な手賀沼の存在に胡坐をかいていて、まちの景観にはあまり関心を持っていないように私には思えた。手賀沼が美しいとすれば、それは手賀沼のお蔭であって誰のお蔭でもない。自分たちが住んでいるこのまちは、もともとは豊かな景観の山林、田園、水辺であったのだ。これを壊した代償として、私たちはここに住むことができたのだ。だから私たちは、失った景観の代わりに、私たちが住んでいるこのまちの景観にもっと関心を持つべきだ」などと生意気なことを言っていたことを覚えている。

さらに「その手賀沼だって、近くへ行けばゴミだらけ、所々朽ちた漁網が置き捨てられていて、手賀沼公園あたりはボートの墓場だ。漁業者や遊船業者は、手賀沼で糧を得ているのだから、彼らにはそこを美しく保つ責務があるはすだ」ともほざいた。当時の、あのキラキラ光る手賀沼は、水面下では実は瀕死の重傷に陥っていて、NPO法人「せっけんの街」や「美手連」の方々によって、介護されていたことを後に知った。
「愚痴ばかり言っていても仕方がない、前に進もう」というわけで今の会の骨格ができて、13年の歳月が過ぎた。

多くの仲間が手を組んで、市民に我孫子の景観に関心を持ってもらう活動を、地道に推進してきた。市の景観行政との協働も着実に実を結んでいる。メデイアも当会の活動を度々掲載してくれている。しかし改めて「我孫子らしさ」を考えてみると、キーポードの指が止まってしまう。さて「我孫子らしさ」って何だろうか。水辺の風景、里の風物、まちなみ景観といった三位一体の我孫子の景観というけれど、実はそこに独特の我孫子らしさを見つけるのは難しい。

これらの景観を良くしていく活動によって、「我孫子らしさ」が出てくるのだと思う。かつて、会の名前を考える際に、「我孫子の景観を守る会」か「我孫子の景観を育てる会」かの議論があって、育てる方に決まった経緯がある。そして、会員一人―人が「我孫子の景観を育てる」を合言葉にして活動している。

日立総合経営研修所庭園公開、我孫子ゴルフ倶楽部の市民観桜会、景観コンサート、我孫子のいろいろ八景探し、歴史景観散策会、「楚人冠のメッセージ」「我孫子のさくらマップ」「我孫子の坂道マップ」「あびバス景観散策マップ」の発行等々、これらの活動が「我孫子らしさ」につながっていくことであろう。

私は思う。「我孫子らしさ」とは、「我孫子の景観を育てる会」の存在と活動、そのものではないかと。これこそが他のどのまちにもない、独特のものではないかと。この存在と活動の継続が、素晴らしい「我孫子らしさ」を創りだしていくことを信じてやまない。
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