〜前会長吉澤淳一さんの、当会18年間を振り返った回顧録を、93号から連載しています〜 | ||||||||||||
吉澤 淳一(会員) | ||||||||||||
●景観論の他にも、芸術に造詣の深い冨樫さんから、こんな提案があった。景観を見ることは当たり前のことだが、景観を聴くのはどうだろうか、というのである。平成16年のことである。その年に論文「我孫子で考えた都市景観論」を発表した方だから、何か深いお考えがあってのことに相違ないと思った。そんなに難しく考えることは無いよ、我孫子の景観を音楽にするんだよ、と事も無げに言われて困惑はさらに広がった。足助さんや木村さんたちと議論して、それならばコンサートを開こうということになり、冨樫さんにぶつけると、そうだよ、それだよ、それをやるんだよ、と返ってきた。さあ、企画、キャスティング、選曲、映像といった諸作業に入った。足助さんが所属している男声合唱団シャウティング・フォックスの指導者で、あびこ声楽家協会・あびこオペラ合唱団会長で自らがバリトン歌手の大久保光哉氏の全面的な協力のもとに、第1回公演に向けてスタートを切った。 【第1回公演】 ●平成17年11月、湖北地区公民館ホールで最初の公演を開催した。タイトルは"サウンドスケープ・イン・アビコvol.1"「手賀沼の四季を唄う」に決まった。春夏秋冬4部構成で、素晴らしい手賀沼の映像をバックに、懐かしい歌が聴こえてくるのだ。早春賦、夏の思い出、枯れ葉、雪の降るまちを・・・。 ●会の森大吾さん(作家名:若松慎吾)作曲の手賀沼のポプラを忍ぶ歌「ポプラ」が幕開けだった。我孫子ゆかりの中勘助の詩「沼のほとり」から、仙道作三氏、徳永洋明氏に作曲された歌も3曲披露された。 ●大久保光哉氏が招聘した3人のソプラノ、2人のバリトン、2人のピアニストのプロの皆さんに、あびこオペラ合唱団が加わった豪華キャストである。1回目はこうして満員盛況で終わったが、私たちには3年で3回公演する夢があった。 ■第1回のレポートへ(2005.11.19)
【第2回公演】 ●平成18年10月、昨年と同じく湖北地区公民館。"サウンドスケープ・イン・アビコvol.2"は、「我孫子の原風景へあなたをいざなう」というタイトルで開催した。チラシ裏面には、・・・乙女たちがいざなう我孫子の現風景・・・「タイムスリップ・イン・アビコ」−我孫子の過去と現代を歌と映像と語りで綴るー とある。なんとも欲張ったキャッチフレーズの連打であるが、そこに会員の熱い思いが詰まっている。 ●映像素材には恵まれた。明治・大正・昭和にかけての写真集「我孫子みんなのアルバムから」が大活躍した。更に白山中学校合唱部卒業の女子高生2人が大正時代の女子学生に扮して、相島芸術文化村(当時)の井上家屋敷(現・我孫子市指定文化財)に現れる姿を追うロケーションが印象的だった。私の会社時代の友人で我孫子在住プロカメラマンの水津洸一郎さんには、いろいろ八景を含めて随分とお世話になったものだ。 |
●歌は、渡邉真弓(ソプラノ)鈴木左紀子(メゾソプラノ) 布施雅也(テノール) 大久保光哉(バリトン)、合唱は白山中学校合唱部の卒業生を中心にした「我孫子コールセピア」、佐藤艶子(語り)大澤絵美(ピアノ伴奏)で構成された。お聞き覚えの方もいるでしょう。 我孫子コールセピアのメンバーには、いろいろ八景でお馴染みの塚本江理子さんの名前も見える。
【第3回公演】 ●今回のテーマは、"道"・・・我孫子・逍遥・・・。平成19年12月、会場はこれまでと同じ。
●出演者は今回も豪華な顔ぶれだが、ここでは児童合唱団 リトルキャッツを紹介しよう。小学生だけの小さな合唱団で、女性合唱グループ"レインボー"を率いる酒井玲子さんが指導している、酒井さんは作曲家でもあり、会の秋田さん、鈴木さん、三樹会の湯原さん出演の「明日に向かってボランシカ」の主題歌「ビバ!ボランシカ」の作曲・ピアノ演奏とバックコーラスでもお世話になった人。 ●そのリトルキャッツの少年少女が、湖北台中央公園に集まって遊んでいる風景が映像になって画面に現れ、酒井さん作曲の「今日から明日へ」、あびこのわらべ歌(作り手不明)、滝廉太郎の「ひばりはうたひ」を唄った。 ●最後に出演者全員で、冨樫さんの詩に徳永洋明氏が曲を付けた「我孫子景観賛歌」を出演者全員で歌い、3回公演の幕を閉じた。 【舞台裏の話】 ●本公演は、1回目は会と我孫子市の共催、2回・3回は会の主催で行った。当時、会は発足5年目で公演費用を賄うだけのお金は無かった。公演1回あたり、会場費、出演料等で40万円かかる。湖北地区公民館ホールの客席は250席、一人1000円の入場料で200席埋まれば20万円は賄えると踏んだ。そこで市に協力を仰ぎ、趣旨に賛同いただき共同主催者になってもらい、半額の20万円を負担していただいた。2回目3回目は、市に公募補助金という制度があることを知り、これに応募したところ、1回目の実績があったことも幸いし合格した。今思えば、すべて他人(ヒト)の何とかで、良くこんなことが出来たものだと、会員のパッションの高まりを感じる。 ●このコンサートの成功、そして大久保光哉氏との出会いが、後の「我孫子のいろいろ八景」発表会コンサートにつながっていくとは、この時誰も知る由もなかった。 |
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