〜前会長吉澤淳一さんの、当会18年間を振り返った回顧録を、93号から連載しています〜
  ≪ 我孫子の坂道研究 ≫ 吉澤 淳一(会員)     
                            〜その1〜
 
【ハケの道を学ぶ】
何の集まりだったか覚えていないが、定年直後にいろいろなボランティアをされている人たちのワークショップに参加したことがあった。平成11年頃で、私はまだ市民活動の駆け出しだった。ワークショップの中で、私と同じつくし野に住む清水昭子さん(故人、元会員、初代編集長)から、彼女が参加しているグループの活動の話を聴いた。そこで初めて「ハケの道」という言葉を耳にした。「ハケの道」?これは何だろう。会が終わってから彼女から詳しく聴いてみた。我孫子のほぼ全域にわたり低い台地があり、その裾を取り巻くように道がある。自分達のグループではそれをハケの道と呼んでいると教わった。

私はかつて我孫子市道路愛称委員会で市内21の道の愛称を付けてきたこともあって、俄然興味が湧いたものだった。
 "はけ"を広辞苑で引くと、「(関東から東北地方にかけて)丘陵山地の片岸」とある。「水や物が捌ける」の"はけ"とは別になっている。今風にネットで調べると、もっと詳細に説明してくれる。

大岡昇平が昭和25年に発表したベストセラーの恋愛小説『武蔵野夫人』に、はけの道が出てくる。主人公は「はけの家」に住み、小説の書き出しは「はけ」に関する解説から始まる。「土地の人はなぜそこが『はけ』と呼ばれるかを知らない。」が書き出しである。

小金井市の散策ガイドでは「小金井市には高低差15〜20mの段丘崖(国分寺崖線・ハケ)が東西に走っている。そのため風情のある坂や階段が今も数多く残っている」とあって、詳しく紹介されている。

カタカナとひらがなの違いはあるが、何か我孫子と似ているなあと漠然と感じた。我孫子市の道路課や教育委員会文化課(現文化・スポーツ課)などに問い合わせるが、「ハケの道」なるものは市内では聞いたことがないとの回答。我孫子の文化を守る会、我孫子ガイドクラブなどでも知らないという。古くからの我孫子の方々も同じだった。

しかし平成13年に我孫子の景観を育てる会が立ち上がった頃には、このハケの道という言葉を景観推進室の方々も使っていた。会が参加していたプロジェクト『ハケ・ふれ21』はハケの道と手賀沼ふれあいラインの21世紀という意味だったのだ。(■93号回顧録1

話を平成11年に戻すと、私は我孫子のハケの道をこの目で見てみたいという欲求に強く駆られたものだった。

早速ハケの道巡りを始めた。これは私にとって探検だった。我孫子の地形を標高15〜20mラインで線を引くと、ワカメの様に襞を沢山持った東西に延びる台地が出現する。その裾を取り巻いているのがハケの道ということになる。低地が台地を深く抉っている所もある。この襞がハケの道の全長を恐ろしく長いものにしていることも分かった。
(図:我孫子の台地:著者作)
ともかく巡ってみた。方法は徒歩と自転車である。東の方は適当なところまで車で行って、そこから徒歩で。丘裾の道は全部が繋がっているわけではなく、民家があったり市有地になっていたり、所々で立往生することもあったが、毎日が発見の連続だった。特に台地の北側は宅地開発がされていないところが多く、大小さまざまな谷津が迎えてくれて、往時の面影をしのぶことが出来た。最近ではハケの道という呼び方は定着していて、我孫子のいろいろ八景では「ハケの道八景」がよく歩かれている。この5月には朝日新聞で「白樺派が行き交ったハケの道」という見出しで全2ページの特集が組まれたほどだ。

ハケの道を踏査した最大の発見は、台地と裾を結ぶ沢山の坂道に出合ったことである。興味は俄然この坂道に移って行ったことは言うまでもない。
ハケの道八景の一つ、布佐北面の里の道

【坂道を踏査】
坂道といっても我孫子の場合は高低差15〜20m程度の小坂道であるが、その数に圧倒された。よし!これらの坂をすべて歩いて写真に納めてみようと思い立った。丁度会が立ち上がったときだったので、景観推進室と話をして市のデジカメを借りることにした。その代わり写真データは市と共有するという条件で。さあ、来る日も来る日も天気さえよければ、一人でカメラ片手に坂道行脚。坂の上と下からの2〜3カットをセットで撮っては記録を、撮っては記録を、何日かかっただろうか。幅員の大小、舗装・未舗装、普通のスロープ・階段、見上げる眺め・見下ろす眺め、住宅地、斜面林、直線・曲線、そして景観等々千差万別で歩いてみて実に楽しかった。

今、古い資料から記録を取り出してみた。207坂・477カット、坂の形状等の記録は私がwordに起こし、映像は市がベタ焼きしてくれたものが残っている。

最近景観推進室に確認したらデータは残っていないとの事で少々がっかりしたが、87ページにわたるペーパー資料を残していたのは幸いであった。そしてこれが私の景観活動の出発点であり原点でもあった。ハケの道を学び、坂道を踏査したことが、その後の活動や発想の原点になっていくのである。

※今年の3月に「東葛坂道事典」が流山市立博物館友の会より発行された。我孫子の坂道が23カ所収録されていて、我孫子の文化を守る会の3人の方が分担して執筆していた。「■坂道八景」の全ての坂が収録されていて、その名前の大半が「坂道八景」のために市と当会が協働で命名したものだが、そのことに触れられていないのは残念であった。また平成14年に当会が発行した「我孫子の坂道ウォーキンマップ」の収録中に名前が判明したいくつかの坂も名前入りで掲載されていた。みな丁寧に説明されている。
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