― 我孫子の歴史景観を探る ― その(3)
元"川港町"布佐 と "緑"の布佐台の散策
我孫子の景観を育てる会
名所解説

<元“川港町”布佐>
(1)なま街道(江戸道)
なま街道、正式には江戸道という。道の東側には明治3年の洪水で出来た"切れ所沼"があった。
普段、魚は腸(はらわた)を抜くもの、生き締めしたもの、そのままのものに分け籠や箱詰めにして送られたものであるが、当時、なま舟と呼ばれる船中に生魚を入れる生簀を持った船があり、なま街道は、その船に因んで称された街道と思われる。何れ当て字なのであろう。

18世紀末の天明の頃、鹿島灘、九十九里、霞ヶ浦の魚を積んだなま舟は、銚子を夕刻に発し、屈強な若い船頭3人で力漕、"網代場"まで来て、荷揚げされたなま魚は、江戸に向け一日四千籠に及び、150頭の馬で輸送した。その道筋は、白井町平塚、沼南町藤が谷、松戸市金ケ作陣屋を経て松戸宿の河岸まで約30qである。タイ、カツオ、マグロ等の?魚は、銚子を出て3日目、一昼夜で日本橋の朝市に間にあったという。 5〜7月の豊水期は活船で関宿を経て運ばれた。天明年間とは浅間山が大噴火し、その後の天候不順により飢饉が続いた時代である。
左岸に、なま街道。中央部は利根川堤防と火の見櫓
(我孫子 みんなのアルバムから)
(2)布佐馬頭観音堂
相馬霊場五十八番縁起によると、文永10年(1273)手賀浦を開墾するため高台から築留まで利根川に新堤を作った。そのため銚子から松戸に通じていた水上輸送は布佐手賀浦川口を通過することが出来なくなり、七里の陸路を馬で運ぶようになった。
17世紀末の元禄年間になって、問屋と馬主が馬の慰霊にと馬頭観音堂を建てたという。
(3)網代場跡
ここは急流箇所である布佐・布川間の狭窄部下流にあたり、海から昇る魚が一旦留まるため、網、投げ網の漁場となった。天保二年には仕掛けられた"網代"で川が滞流し、村々が水害を受け、幕府が網代を禁止した程といわれる。後に水運の発達と共に船着場も出来て栄えた。

「なま街道」の出発点で,後に水運の発達と共に船着場も出来て栄え、「刀寧帰帆」と詠われた。その様は、赤松宗旦の表現で示すと「人声喧雑肩摩りあし接し、傾くる魚は銀の刀のように輝き、桃の花が咲き、若葉が芽吹いている。」  その後、高瀬船や、蒸気船も接岸し賑わった。 
今は、そんな網代跡の昔を偲ぶ面影も無いまま、いつも浚渫船が左岸で作業をしている。

布川魚市の光景;赤松宗旦画

さけ大網の図;赤松宗旦画

昨今の網代場跡
・高瀬船
利根川は大型高瀬船の航路として、徳川中期には「江戸100万人(台所)」に全国諸藩の特産物を運び「川の道」として賑わった。水戸徳川家35万石の高瀬船は、紺地に「丸に白抜きの水の字」の藩旗を船尾になびかせた。
この他仙台藩、会津藩、紀州藩など54藩の高瀬船、江戸商人らの船も往来した。 江戸に向かう高瀬船は最盛期には150隻以上が行き来したと言う。(写真の船、帆、人物など輪郭補正を行ったが、空は補正の犠牲になってしまった。)
高瀬船 出典:我孫子市史 近現代編 明治初期の小名木川界隈
出典:明治末年「東京新選子遺書図会」輪郭補正あり
かって積荷が波しぶきで濡れないように背を高くした高瀬舟と呼ばれた舟は、日本の川が浅く、狭くて急流なため、米の積み出しに当たって、渇水期は特に荷を満載して浅瀬に立ち往生することが多かった。
そこで工夫されて船体は細く、船底を浅く扁平にして浅瀬に乗り付けても方向転換が容易なものにした。
この高瀬船の大きさは500俵積みで船長18m、中心部の幅は4mもあった。

海船"五大力"(200石米500俵積み)の水深は220cmであるが、川船の高瀬船(200石)の場合は90cmと半分弱の水深で動けた。利根川には中型船が多かったが、宿泊、自炊が出来る部屋もあった。
布佐の船大工は、代々この高瀬船を建造し、嘉永5年(1852)には清五郎が米500俵積高瀬船を建造した。
・蒸気船通運丸
通運丸は、東京で初めての外輪蒸気船かというとそうではなく、明治4年(1871)にすでに川蒸気飛脚船として「利根川丸」が走っていた。東京深川の万年橋の近くに高橋次郎左衛門によって利根川丸会社が設立され、江戸川をのぼって関宿から利根川に入り、奥州街道の中田(栗橋の対岸)に達するものであった。 明治8年には当時わが国最大手の通運会社、内国通運会社が設立され、通運丸によって銚子まで通じるようになった。

明治43年の通運丸航路料金表によると、東京から現在に残る利根運河を経て布佐、木下などに停泊した後、銚子に至った。東京発午後6時、布佐発翌日午前4時41分、銚子着12時20分であった。
柳田國男「故郷70年」に見る文章に当時の様子を次のような文書がある。
布川時代
私が布川や布佐にいる間に、利根の川筋はどんどん変ってきた。白帆をかけた川船が減って、川蒸気がずんずん通るようになってきた。川船は昔は米運びをして関宿まで上がったものだった。ずいぶんえらい話で、銚子からだと二十五里はあるだろう。関宿まで上がってから、今度は江戸川へ入ってそれを下り、市川の近くまで来てそれで横堀に入り、隅田川につながるというわけだった。

ところが川蒸気が出来たので上へ行ってから下へ戻って来るのが馬鹿げているものだから、利根川と江戸川との近よった三角の狭い所に切り通しを作って、往復できるようにしたのが、十分に利用できるまでにならなかった。私はそのコースを通って東京に出て来たのである。利根川も江戸川も、両方とも外輪船がその運河の近くまで来て停まってしまう。お客は土手の上を一里あまり歩いて連絡し、向こう側に待っている川蒸気にのるというわけであった。そうこうしているうちに汽車が出来て問題はなくなったが、この利根川の川蒸気いうのはおかしなものであった。
利根川の白帆 ・・・・・
布川に行って二,三日目に、私は、その低い松林の上をだしぬけに、白帆がすうっと通るのを発見した。初めは誰かが帆のようなものをかついで松林の向うを歩いているのではないかと思った。何しろ船も見えず、そこに川が流れていることも知らなかったからである。水害の多いところだから出来たのだろうが、その川の屈曲しているところに、約一里ほど長い中の島がかなり急流に洗われながら横たわっていた。布鎌といって、初めはむろん砂っ原だったのだろうが、地味が豊かなので、誰かが行って畑作開墾をやり、そして松を植えたらしい。そこへ屋敷が出来、部落ができた。茨城県側から見ると、手前にある松林と向うの中州の松林とが一つの地続きになったように見えていた。この陸地続きに見えている間を白帆がいくつも通って行くのを見たのだから、私が、はじめ吃驚したのも無理はない。利根の川口から十七、八里も遡った所の松原の上を、そんなふうにして白帆が三分の二ぐらい姿をあらわしながら上下している。
これほど変わった景色を私は大きくなってからも知らない。・・・・・・・
(4)岡田松武邸跡 
地元の人は博士の家と呼んでいる、樹木に囲まれた住居(たたずまい)で、母屋左側の書庫洋館は、今は崩壊してしまった。柳田國男とは竹馬の友であった。明治32年東大物理学科卒業後、中央気象台に、予報課長時代に日露戦争があり、日本海海戦時の海域の様子を「天気晴朗なるも波高かるべし」と予報した。東郷連合艦隊司令長官はその予報文を其のまま引用している。
中央気象台長、東大教授兼任、大正13年イギリス気象学会からサイモンズ賞を受賞。志賀直哉、谷崎潤一郎、鈴木大拙などと昭和24年に文化勲章を受章している。
昭和31年82歳の生涯を布佐の自宅で閉じた。
(5)松岡(柳田)邸
明治20年医師で後に布佐町長、千葉県医師会長を務めた兄の松岡鼎家は、柳田が青年の頃寄宿した家である。 柳田はこの地で岡田武松と交友し、文学の山田花袋、国木田独歩、島崎藤村等とも論じ交わった。
このように篤志家の松岡家は幅広い人脈があり、また医学会の関連もあったのであろう東大大澤教授とも親交があったようで、大澤が布佐に住む様になってからは良き相談相手だったようである。
病院は、最近まで凌雲堂医院として継がれていた。
布佐文庫は明治41年に松岡が提唱し設立、蔵書は千冊に及んだ。当初は勝蔵院に置かれたが現在は布佐図書館にある。
(6)松嶋重右衛門呉服屋屋敷

上流からの栄橋  

松嶋重右衛門呉服屋屋敷 出典;日本博覧図−千葉県編(1894) 
松嶋重右衛門さんの呉服屋は現在の大塚石屋さんの西隣にあったが、1955年頃新堤防構築のため、今でも残る堤防沿いの道に面する屋敷は壊された。
松嶋重右衛門さんの呉服屋屋敷は、布佐の最盛期の代表として明治27年(1894) 「日本博覧図−千葉県編」 に銅版画で描かれ、その背景描写は、富士、筑波山、利根川、手賀沼、和田城跡、布佐台と水田の中の松等"布佐の全ての景観要素"が取入れています。

当時の商家土蔵造りの家並みは、魚屋天忠さんのある交差点から東に味噌醸造の"やまつね"さん付近までの200m間に辛うじて残っている。
(7)榮橋
江戸時代関東郡代伊奈半十郎忠治が布佐・布川間の概算すると225千トンに及ぶ土砂を開削して導水した利根川にかかる橋。この橋は地元長年の請願で、布佐・布川両町が19万円を借りて現在地点から約100m下流に架け、昭和5年3月に開通した。同19年、県に移管後、同46年現在位置に架け替えられた。
(8)愛宕神社
布佐八景の1つ「愛宕暮雪」。 布佐台地の東端、坂南側に位置し、布佐を一望できる。布佐八景の1つ。「愛宕暮雪」、老松は亭々とし、凍雲低く垂れる夕べ、微かな風が時刻の鐘を響かせ遠くに消し、三々五々の寒ガラスが驚き雪を蹴散らし飛び去って行く。  しかし現在の愛宕神社は、周辺の宅地化が進みその様な眺望はない。

愛宕信仰は京都市愛宕山の愛宕権現、祭神は火の神、早くから神仏合祀を行い、神社を奥院とし、朝日山白雲寺を建て、勝軍地蔵、泰澄大師、不動明王、毘沙門天を奉る。総称して愛宕大権現と称する。いずこの愛宕さんも、おおむね領界、境界の山上に祭られ、展望の地にあるようだ。
(9)勝蔵院
布佐八景の1つ「西山暁鐘」。 西山は西光山、天台宗勝蔵院の山号。境内塚の上の鐘撞堂から畑越しに手賀沼が見えた。そんな村里の風景、農民に知らせる明け方の鐘、そして手賀沼を感じさせる景観情景詩である。
今はその鐘は戦時中軍に徴用されて無くなってしまったという。
(10)布佐城址(伝承和田城址)
頼朝の腹心、和田義盛が鎌倉を追われ、その子孫がたてこもったという伝承の地。昔の地形は成田線建設時とその後の整地で明応9年の板脾のある小山が残るだけと成った。
和田氏の伝承は印西町にもあり「和田義盛の妻巴御前と子の朝比奈三郎とその子孫が住んだ」という。

整地工事以前の原地形を想定して考えると、城址は地続きであった頃の布佐と布川が作る湾曲地形の南西部に位置し、現在布佐の街並になっている湿地帯と手賀沼の出口を望む位置にある。常陸側の小弓公方足利義明勢とは永年水運をめぐって対立し、延徳5年(1493)布佐合戦、永正18年古河公方方の布佐豊島氏等と小弓公方勢との戦い、元亀3年(1572)にも戦いがあった。
<布佐台>
(11)竹内神社  
平将門の乱が平定された天慶3年(940)に祀られた布佐の氏神。祭神は天之迦具土命。合祭主は日本武命と武内宿祢命である。この乱で竜崖城主栗巻禅定は戦死している。

河岸町として栄えた土地柄、山車は活気に満ち、踊る神楽は艶やかである。 境内には参道の松の他、市指定の保全樹木である桜、スタジイ、タブ、ツバキ、スギ,榎(えのき)などが多い。 タブの木は海に近いところに多いクスノキ科の常緑高木である。一名イヌグスと呼ばれるが、我孫子での指定樹木数は少ない。
夜神輿  神輿行列     市広報室提供
(12)稲荷神社跡 (と大澤岳太郎教授別荘  闡玄(せんげん)荘跡)
布佐八景の1つ「竹岱秋月」。 利根川を眼下にする高台にある。 「竹岱秋月」 竹はこの地の竹林、岱は高台の意。 利根川はここ狭窄部に来て急流となり、渦を捲く。

秋は正に粛々と深まり夜しんしん松葉は玉色に光る。尽きる事の無い自然の美しさ、ひれ伏す想いがするということか。近接地に旧東大医科大学解剖学大澤岳太郎教授(明治33〜大正9)の別荘があった。彼はドイツから来たユリア夫人のフランクフルト望郷のためこの土地を選んで居る。
今も当時ほどではないかもしれないが、小貝川との合流地点と筑波山を望む風景は利根川沿いの名勝地である。夫人は昭和16年にこの地で亡くなった。

 闡玄荘とユリア夫人    大澤於菟氏提供写真

闡玄荘東屋位置からの利根川
(13)道祖神前古墳と斎藤邸の欅木 
356道に緑のトンネルを作るケヤキの防風林で、そのうち1本は市指定の保全樹木である。
(14)布佐一里塚
当一里塚は成田街道沿い北側にあったが国道工事で破壊され、今は国道脇に石碑のみが残されてある。かっては東我孫子の向原一里塚や中里一里塚のように榎の大樹と多くの樹木があったものと思われる。 街道沿いのそんな風景が残っていたらどんなにか素晴らしいことか。

佐竹街道と成田街道はこの一里塚までは重なるが、佐竹街道は、布佐と布川が地続き当時であったので、この付近から布川に向かったのであろう。
(15)余間戸公園
布佐余間戸遺跡・古墳:縄文(草創期)包含地であり、古墳(鬼高)時代集落のあった所でもある。
布佐平和台住宅地は、第1回の景観奨励賞を受賞した住宅街です。

自治会が主体的に緑地協定を定め街並の緑化に努めており、その緑豊かな潤いある景観が評価されました。
(16)篠の越路
大きな樹林に覆われる小路と村里の原風景が創る素晴らしい空間が広がる。
(17)井上邸  (第3回景観賞受賞)
歴史的景観を現在に保つ井上家は、享保期に井澤弥惣兵衛らの手賀沼新田開発に江戸の商家をたたんで参加。
相島新田を拓いた農業第一線の指揮者で代々の名主である。

邸宅前には昭和初期、12代の井上二郎氏の顕彰碑(開発済世の碑)が建つ。東大工学部を卒業した井上二郎氏は、耕作民愛護・郷土復興・農村近代化にも意欲を燃やし、「自力更生」を生み出す産婆役にもなった。
現在は、相島工房を拠点に幅広い音楽・芸術文化活動を行なっている。
(景観あびこ7号インタビュー) 
この歴史空間をどうしても残したい。・・・行政とも話しはしたが、結局自分がやらなければダメだと分かりました。一般に言われている相島新田は、私の祖父12代井上次郎の時代、大正の末に干拓したのが基本です。遡れば徳川、享保年間に幕府の大号令で支出を減らして生産をあげる。そんな公共事業の金主になったのが始めのようです。江戸商人で3代続いた佐治兵衛と言う人が店をたたんでここに来た。私で14代になります。この家の建て方は、そんな商人の家ですから、江戸風、町や風と言われてきました。景観を含む保存問題は市民が自分のこととして考えなければ解決は難しいです。

篠の越路       
     
 江戸風屋敷  井上邸
(18)浅間神社
浅間神社の社叢はスタジイ林が大部分を占めているがタブノキ優占林分とアカガシ優占林分も見られる。これらの林分は面積的には小さく、組成的には林床の構成種が大変多い。しかも、かなりの種が林縁性の低木あるいは草本である。

これらの樹木に覆われた静寂な空間がある。
(19)勢至前遺跡
縄文中期の住居跡2軒 と奈良・平安時代(7〜9世紀)の21軒居住跡などの包含地。
(20)成田街道沿いの高垣根
成田街道沿いの高垣根
 「我孫子の景観」 より

頼朝の松  教育委員会資料より
(21)成山邸保全樹木
布佐台バス停南側に大木の樹林がある。そのうちのスダジイ、ケヤキ数本がが市指定の保全樹木となっている。
参考解説  頼朝の松
大作谷津と浅間谷津の間の台地、布佐幼稚園の近くに、「千歳の松」 とも 「頼朝の松」と呼ばれた松の古木があった。
頼朝が伊豆を逃れて房総の地に入り、ここを通った時、明媚な松の袂でしばし旅情を慰めた処と言う。しかしその「頼朝の松」は2〜30年前に枯れてしまった。
現在はその地に新堀宅の氏神が祀られ、赤松の若木が植えてある。
※なま舟、なま街道、なま魚の「なま」は、魚を3つ重ねた文字「」ですが、インターネット画面では表示できないので、文中ではひらがな文字とした。
以上
平成17年11月
文責・梅津
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