― 我孫子の歴史景観を探る ― その(4)
水戸街道(陸前浜街道) と東我孫子成田街道周辺の散策
我孫子の景観を育てる会
名所解説

[1]今に残る"水戸街道" (陸前浜街道)   ガイドbP〜8
 水戸街道は帰り路の名称。江戸日本橋を基点に、千住、新宿、松戸、小金、我孫子、取手、若柴、牛久、荒川、中村、土浦、稲吉、府中、竹原、小幡、長岡の宿を通り徳川御三家の城下町水戸に通じた。天下の副将軍水戸藩を通る陸前浜街道とも言われたが、五街道には入っていなかったそうです。津軽、南部、仙台、三春、棚倉、平など二十余藩の参勤交替の街道であった。
(1)平成15年景観住宅賞  大原邸ガーデン
(景観あびこ11号 インタビュー;大原素子さん談話より)・・・・・・
●海外に行って気が付いたのですが、海外で目にする多くの庭園・花壇はオープンアプローチがあって、広々して閉塞感がない、たとえお庭のないお家でもベランダを上手に工夫して外からでも目を楽しませてくれます。・・日本のお庭もせっかく愛情もって育てた草花の美しさを多くの方々と共有できたら世の中はもっと素敵に住み良くなるのではないでしょうか。
●特に庭園を花で飾ろうという考えはありません。訪ねてこられた方に少しでも楽しんでもらえたらと思い皆さんに教えてもらいながら、自分なりに好きな花を配色や配列を考えながら植えています。最近では、種がこぼれたり、鳥が運んでくれたものが庭を思いがけない配色で彩ってくれており、こう言った小さな発見はガーデニングの醍醐味ではないでしょうか。・・・・
(2)柴崎神社(バス停金久保前)
景行天皇の時、まだ大和朝廷の権威は及ばない所が多く、そのため日本武尊に東国討伐の命を下した。武尊は途中この地を通った時土民は大いに悦び尊を迎え、征途の安全を祈願する尊社殿(柴崎神社)を造ったとされます。

 後、平将門も祈願所としたと伝えられ以後、相馬家一族の守護神、妙見社となった。柴崎城主荒木三河守は社殿を改修するなど尊宗が厚かったといわれる。 徳川時代に至っても参勤交替のとき必ず下乗して参拝した。明治13年柴崎神社となった。隣接する円福寺も含める境内には戦国期の城郭址と見られる跡が在る。鎮守の森は数多くのシラカシ、楠、欅(けやき)が保全樹木となっている。
(3)東源寺 と 円福寺
東源寺本堂正面左側にある素晴らしい幹を持つ古木は、県の天然記念樹榧(まがや )の木で、樹長24m周囲4.5m、樹齢250余年と言われる。そのほか境内には保全樹木 マガヤ、樟(くすのき)がある。 榧(まがや )の木は、古くは丸木舟や仏像の材料として使用された。
円福寺は街道に面したこじんまりした庭木の美しい寺である。

「なま街道」の出発点で,後に水運の発達と共に船着場も出来て栄え、「刀寧帰帆」と詠われた。その様は、赤松宗旦の表現で示すと「人声喧雑肩摩りあし接し、傾くる魚は銀の刀のように輝き、桃の花が咲き、若葉が芽吹いている。」  その後、高瀬船や、蒸気船も接岸し賑わった。 
今は、そんな網代跡の昔を偲ぶ面影も無いまま、いつも浚渫船が左岸で作業をしている。
(4)八ヶ所宿
 明治初年頃の柴崎村は、この付近が柴崎村の中心地に、昭和30年頃まで残った中屋という旅篭(通称八ケ所宿)があり、我孫子宿、青山村、下ツ戸村、取手宿利根川渡し場手前の休み所になっていました。 
青山の利根川渡しは、洪水時に逗留できないために柴崎宿は必要でした。しかし、こことて青山程ではないにしても、北辺の利根川氾濫原から直撃する洪水は、柴崎の谷津沿いになだれ込みました。そのため谷津の入り口には洪水堤防を築きました。柴崎神社脇の谷津出口には後田堤、国道6号青山台入り口交差点付近には白水堤が造られました。 しかし洪水になると、これらの堤を破壊して谷津中に打ち寄せてくる事が多かったようで、水害をめぐる悩みは絶えなかったようである。
柴崎神社
東源寺の榧(まがや)の木  円福寺
(5)旗本家給人・川村磯右衛門家
川村磯右衛門は新見家知行村々の筆頭名主、しかも柴崎村三給名主中唯一の苗字帯刀名主で、幕末の旗本家給人ともなった人です。名主の農閑余業として、文化14年(1817)酒造株を引き受けています。酒販売の最盛期には現在の我孫子市内は勿論岩井、大室、呼塚、取手、花野井など12村に供給されました。
川村家の南隣は須藤家 須藤宅の古木スダジイは多数市指定の保全樹木になっています。
 春の河村邸四足門
(6)柴崎城址 
城址のあった所は、中村脩著の"ふるさとあびこ"によると 「利根川(昔の常陸川)の湿地帯を望む柴崎台地の突出部に位置する。昭和30年代末までは土塁、空掘り跡、虎口などが東端部には物見の櫓台跡があった。」 一帯は「城根」という字名である。「三,四郭からなる直線連郭式の戦国城郭である。」 戦国時代、高城氏の支配化にあったと言われるが確証はなく、天正2年(1574)頃は古河公方家の御料所であった。また、中峠城の河村氏一族の知行下にあった。 柴崎神社周辺に残るといわれる城址との関係は不明。
(7)青山八幡神社と無量院 
市の保全樹木 銀杏と市内で数少ないタブの木がある。
(8)青山宿場
猿島の戦いに敗れた落人が青山の高台に住んでいたが、元禄の頃川筋の青山に移り、利根川の渡し場で生活するようになった。対岸の取手への渡しが専門の村役で、そのため宿場への助郷は免除されていた。
青山は布佐の江蔵地と同じ川州の上にあり、常時水害に見舞われる土地柄です。
当時の堤防は現在の地盤から1m弱しかなく、青山の土は豆腐土と言われるほどに軟弱であったと言う。そのため洪水になると堤内に水がじわじわと侵み出して来る有様で、所謂"液状化"が発生し、堤防の上からではなく、下から切れたそうです。 青山の家々は殆ど完全に水をかぶり茅葺の屋根が浮き上がり、納屋が押し流されることもありました。今でも旧家の納屋には、洪水に備える舟があります。
 青山宿
[2]"成田街道"と周辺の"歴史景観"   ガイド11〜18
 成田街道は、元来「鹿島道」、「奥州街道」、「鎌倉街道」、「佐竹街道」 と賞されていた街道ですが、成田詣の盛んになった元禄以降、成田街道と呼ばれる様になった。そのため成田街道は布佐の先で鹿島道から分かれた。
湖北村史によると、常陸の国久慈郡大田山の佐竹義重は勢力強く、天正16年(1588)水戸但馬の守重通亡き後、義宣を水戸城主とした。義宣は秀吉から80万石を賜り天下の六代将軍と称されるまでになり、下総もその支配下にした。中相馬の鎌倉街道は佐竹街道と改められ、一里塚を築いて往来の便宜を計られた。と有ります。佐竹街道はもう一つの官道「常陸北路」と根戸で分かれて我孫子・布佐台・布川の中田切・龍ヶ崎を通って水戸に通じていました。近年、古代の「東海道」が通過していたとも考えられるようになった。
(11)東我孫子の一里塚
正式な名称は向原一里塚と言う。佐竹藩が築いたもので、中里一里塚と共に現存する全国的にも数少なくなった貴重な文化財的な一里塚です。
向原一里塚
(12)日立総合経営研修所の庭園 
日立総合研修所・庭園は、平成15年 景観賞を受けています。 
また平成14年秋以来、春秋に庭園公開が、"我孫子の景観を育てる会"主催、日立総合経営研修所協力のもと行われています。
"景観あびこ七号"誌上から紹介すると ――  日立総合研修所庭園一般公開は"我孫子の景観を育てる会"主催で今年で第二回目を迎えた。5月24日(土)午前10時開園と同時に市民の皆さんが続々つめかけ、閉館の午後3時まで途切れることなく続き、入場者は400名近くに達した。我孫子の自然林、地形を試みに生かした14000坪の庭園コースをゆっくり散策、竹林を抜け、茶室のホトトギス亭や東屋の観月亭で手賀沼を一望、菖蒲池の水面に映る緑の濃さに移ろう初夏の美しい景観を感じ楽しい一日を過ごされた。
また  景観あびこ9号 では ―  関島社長は企業の立場で、自然の景観・環境の大切さを次のように述べておられます。

「私たちは、常に考えるための、勉強するための環境整備を心がけています。戦略を策定する、あるいはビジネスを構築するにはどのような人間が必要か、それをどう育てるのかを考えます。そんな作業は日常生活のザワザワした所では中々できることは出来ません。普段とは違った場所が必要で、日常からの飛躍が望まれます。それには良い自然の環境が最も適しているのです。・・・・美しい景観を、一人だけで守るのは難しい事です。良い環境で勉強し、それが良い考えを生み、結果として日立のためにやっていることが世界のお客様に対して親切で、良い物を提供出来るようになるのだと思います。 」  インタビュー;関島社長談話より

庭園林のサクラ、スギ、ケヤキ、イチョウなど (26)が保全樹木となっている。―

 別館地区は元日本郵船社長大谷氏の別荘でありましたが、楚人冠の「湖畔吟」には、昭和2年5月20日「国民新聞」からの引用文として、徳富蘇峰が楚人冠の"白馬城"で遊び当別荘を尋ねた時の文章一節がある。

偸閑の一日(我孫子小遊)             蘇峰生
…  我らは此から郵船会社の大谷氏の別守墅を見舞うた。
…  花壇にはこの頃外国より到着したと云ふ石楠花(しゃくなげ)が咲いてゐた。恐らくはヒマラヤ産であろう。とても我国のそれとは比較にはならない。鮮紅の色が滴らんばかりだ。 
日立庭園の小径 観月亭からの手賀沼     絵:梅津
尚、別館庭園にある観月亭脇には西大久保古墳(2基)群があります。
(13)手賀沼・滝前広場
水郷を思わせる風景は素晴らしい。
(14)滝不動尊
「ふるさとあびこ」によると文化13年(1816)開眼で頼朝の守り本尊と言う。滝の脇にある倶利迦羅不動がある。倶利迦羅竜王は不動明王の化身とされ、複合の名称"倶利迦羅不動"となり、形は不動明の利剣(宝刀)に竜が巻きついたもの。 滝の修行場に祀られる。 滝不動の水は、石段右手にある石造の竜の口から流れ落ちている。 かっては枯れることのない水が滝の様に落ちていたという。 水は社殿下と思われる水源から引かれている。同じ水源と思われる湧水池は不動尊の西脇にあって、かなりの日照りが続く夏でも池に水はあるが、その水量とここの水理から考えると"滝のように"とは少々表現が大きいのではないかと思われる。
手賀沼;滝下の水郷   絵;梅津 滝不動尊の滝口
(15)我孫子ゴルフ倶楽部
松、スギ、銀杏、サクラなど44本 が保全樹木である。特に入り口付近の松林は、四季を通して素晴らしい景観を作っている。また、13番コースから16番ホールにかけての桜は見事なもので、"我孫子の景観を育てる会"は我孫子ゴルフ倶楽部のご協力を得て毎年"市民観桜会"を開いているが、市民の絶賛を得ている。
我孫子の景観を育てる会主催の観桜会
春の あびこゴルフ倶楽部界隈
  絵;梅津
(16)近隣センター "こもれび (木漏れ陽)"
周辺は別荘地として開発された。当地は戦時中の昭和16〜20年頃 当時の首相近衛文麿公の別荘であった。周辺はコナラ、イヌシデ、クヌギなどの樹木が多い。当時珍重された"ヒマラヤシーダ"を始め現存の巨木、樹林は当時庭木として植えられていたと見られる。その後銀座の"有賀写真館"の創業者有賀乕五郎氏の所有となった。 その後別荘は撤去されたが樹木はそのまま残った。
岡発戸谷津奥の春 絵;梅津 
早春の谷津トンボ池;油絵高橋 下ヶ戸宮前遺跡からの出土品;
千葉県の歴史より引用
(17)岡発戸の谷津
我孫子ゴルフ倶楽部の奥を源にする岡発戸の谷津は、現在休耕田が広がっていて自然が保たれ、貴重な生物が生息している。昭和30年代の農村環境の復活を目指して地権者、農業者、市民による「谷津ミュージアム」事業が動き出した。
(18)遺跡群
下ヶ戸北辺の下ヶ戸八幡神社西隣には縄文中期、古墳時代の貝塚の多い集落跡(宮前遺跡)があります。出土品のスケッチ画は、鉢、注口付土器、ミミズク土偶、石棒、刺突具 です。その他耳飾、円盤具、石斧、石剣、石鍬、骨針など生活道具187種類が出土しています。 
周辺には、我孫子第二小学校裏の9基からなる古墳群円墳を初め、多数の遺跡跡が分布している。
岡発戸からの第二小学校   絵;高橋
下ヶ戸旧家の四足門と庭    絵;高橋
旧家界隈     絵;高橋
[3]その他の名勝地
 * 平成14年 景観賞受賞の" かじ池亭" と
 日本電気且幕ニ所敷地内の " 四つ池 "

徳川の昔、落武者が住み着き農具・鍋釜の修理を始めた。ところが、ある年大雨で土手(昔の堤防)が切れ池が残された。しかし落武者は住いと共に消えてしまった。村人は彼の名を惜しんで"かじ池"と呼んだと言う。

「景観あびこ」6号のインタビューで梶池亭オーナーの渡辺照夫さんは次のように話している。
 「・・ いやいや、それが誤解されるのです。世の中色々変わってもここだけは、雲も、空も、風も変わらない。この自然を残してくれと言うのが先代の遺言です。皆に楽しんでもらいたいのです。駐車場は限りがありますが、いつでもご自由に散策して結構です。
 この池は全部湧水です。5m以上の水位を保っています。・・・・ここの風景は毎日変わります。特に素晴らしいのは虹です。田植えの頃、雨が止んで日が射す。すると虹だ出る。それは大きな虹です。是非一度見に来てもらいたいものです。それから、春になると霧が出ます。それが梶池全体に立ち込めてそれはきれいな風景です。湯布院よりもきれいかもしれません。もう一つ、お月様、満月のとき池に映るお月様は大変幻想的です。」
かじ池
"四つ池"庭園  絵;梅津
日本電気梶@事業所内にある"四つ池"も成り立ちの由来は、かじ池と同じです。スケッチからは定かでありませんが、スケッチ中央部に高さ2m程の昔の堤防が土手丘になって保存されています。
*"一茶憩いの桜"社
"一茶憩いの桜"は、30年前に枯れて伐採されて今はない。 俳人小林一茶が文化10年、北総行脚の旅に出た時に最勝寺に立寄ったとき、旅の疲れを癒した桜であったと言われる。

*我孫子中学校校庭遺跡
古墳時代前期の古墳1基が分布する他、4世紀中期〜5世紀初頭の住居跡7、出土品の中には東日本では類例を見ない貴重な直刀も含まれる。

校門近くには高野山1号古墳から移築された4号竪穴式石室があります。1〜3号は石棺です。竪穴式石室は板石を組合せたものです。石室には約七体の人骨がありました。高野山1号古墳は前方後円墳で墳丘の裾には人物埴輪、円筒埴輪が巡らして配置されていました。埴輪の他に直刀、鏃、首飾り用碧玉(へきぎょく)の管玉、蛇紋岩、ガラスの小玉も出土しました。
我孫子中学に移築の高野山1号古墳4号竪穴式石室 高野山1号墳人物埴輪 ;千葉県の歴史より
* 陸前浜街道(水戸街道)・成田街道分岐点道標
190年前の文化13年(1816)中峠の湛然と言う人が建てたと言われています。道標には東 布佐三里、木下四里、右成田、西 千住七里、北 布施1里 などと彫られてある。

昭和37年頃の分岐点; 故安斎秀夫氏夫人提供
注  保全樹木 ; 我孫子市が指定の保全樹木。現在207本が指定されている。多い順に 1 杉(46)、2 椎・スタジイ(37)、4イチョウ(27)、3 欅(31)、5赤松(17)、 6 樫(15) である。
以上
平成18年5月
文責・梅津
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