吉澤 淳一(会員)
 【きっかけ】
平成13年頃、「我孫子の坂道ウォーキングマップ」の取材中、中峠の順道塚の前の農家でお茶を呼ばれた際に、「相馬霊場八十八カ所手引き図面」(※面は旧字体)なる印刷物をいただいた。(写真2枚)
    手引図面 (表紙)
順路手引図

見ると昭和4年発行のものだった。札所の表と順路図で構成されていた。この家の先代が印刷業を営んでいて発行したもので、今で言うガイドブックのようなものである。これを見て何となく、何時か歩いてみたいなとは思っていた。

平成25年に、我孫子市史研究センターが「新四国相馬霊場八十八カ所を訪ねる」という本を発行した。早速の斜め読み。前述の図と合わせてみて、札所はかつての相馬の地、取手市に58カ所、我孫子市に27カ所、柏市に4カ所ある事がわかった。これを足し算すると89カ所になるが、その秘密は後ほど。

そんな経緯と、我孫子市に27カ所もある事に興味を持った。取手市とは「取手の坂道愛好会」とのご縁もあったので、この際全部廻ってみないかと会員に提案した。札所やお遍路道の佇まいはもちろんの事、道すがらの風物、景観を楽しむことが第一義であった。

【プロジェクト誕生】
早速、飯塚三雄さん(元会員)が名乗り出てくれて、プロジェクトを開始した。酒井弘さんも先達に加わってくれた。
本家四国の霊場は、弘法大師(空海)が815年に開創したと言われており、こちらは約千年後に取手の長禅寺で修業した観覚光音禅師が20年かけて、1781年頃に開創したとある。240年前の事である。こんなこともわかってきた。

八十八カ所巡りをするにあたり、大まかな枠組みを決めた。1回あたりの所要時間を3時間以内にし、午前中に終わること(歩き終えての昼食のビールが暗黙の目的)。公共交通機関を利用すること。利用した交通機関は、常磐線、常総線、成田線、大利根交通バス、取手コミュニティバス、阪東バスと多岐にわたった。大利根交通バスはSuicaが使えないので閉口した。

 【1年かけて11回の催行】 
札所は広い地域に点在していて、発願寺から順序良く並んでいるわけではない。先達さんは入念な下見をして、電車やバスの時刻表と睨めっこしながら、コース取りと時間配分に相当苦労したと思う。そして当日はガイドをする。平成25年6月から平成26年5月まで、1年かけて11回のお遍路行を催行した。布佐下の89番札所浅間神社が我々にとっての結願寺(けちがんじ)となった。
お堂の前で
 
さて、その89番札所である。光音禅師が88番札所を全部創り終えて、或る時浅間神社の下の道を通っていると「光音、光音」と呼ぶ声を聞いた。辺りを見回しても誰もいない。通り過ぎようとするとまた声が聞こえる。これはここに札所を創るように命ぜられたのだろうと89番を創ったという伝説がある。(「新相馬霊場八十八カ所を訪ねる」より) 思い出の多いお遍路行だった。知識も増えた。炎天下、道端の桑の実を食べながら、「赤とんぼ」の一節を思い出す。

鳥居には神明系と明神系の2種類がある。相馬の原風景を見る。お堂の彫り物の美しさと、箇所の名前を知る。懸魚(けぎょ)、木鼻(きばな、写真)、虹梁(こうりょう)、斗供(ときょう)、蟇股(かえるまた)など。



強風で小堀(おおほり)の渡しが出ないので、コース変更を余儀なくされ、3時間かけて10カ所巡ったときも。ある神社では狸に遭遇した。取手から利根川を渡って小堀に向かう取手市コミュニティバスが無料だった。布施東海寺近くでは残雪のお遍路道を歩いた(写真)。
六十八番札所柏市東海寺近くの日本庭園にて

全行程を踏破した剛の者は、柏原さんと酒井さんだった。この催行で踏破できなかった人で何人かは、その後完歩したと聞いている。

全11回の模様は、景観あびこ56号から62号に参加者のレポートが掲載されている。トップバッターは柏倉達子さん。レポーターに指名されると、暑い最中ご主人輝雄さんともう一度歩いたという話を聞いて頭が下がった。以降、濱野さと子(故人)、柏原健子(2回)、寺尾多津枝、飯塚三男、中塚和枝、柏倉輝雄、鈴木洋子の各氏と筆者で書きつながれ、62号では連載アンカーの酒井弘さんが記した「いよいよ結願」で締めくくられている。

さて、このレポートであるが、景観散歩や八景歩きも同様で、毎回景観あびこへのレポートをお願いすることが幹事さんを悩ましている。快諾する人、渋る人いろいろだが、催行が終わるあたりで頼むと「早く言ってくれればしっかりと見たり聴いたりできたのに」と恨まれる。スタート前に頼むと「一日気が重かった」とぼやかれるが、最近はこの方が良いようだ。しかし皆さん、いつも素晴らしいレポートを書いてくださったことは、景観あびこのページを繰れば一目瞭然である。

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