我孫子の景観を育てる会 景観あびこ_title 第105号 2021.9.18発行
編集・発行人 中塚和枝
我孫子市緑2-1-8
Tel 04-7182-7272
編集人 鈴木洋子
景観の本棚 −7−「浦辺鎮太郎作品集」 新建築社  (企画・発行:浦辺太郎 浦辺真郎 浦辺徹郎)
 冨樫 道廣(会員)
  本書は昭和初期から、倉敷市を中心に数々の名建築を残した偉大な建築家、浦辺鎮太郎(ウラベシズタロウ・1909〜1991)の終生の作品集アルバムである。

  我が国の景観まちづくりで、常に優先的に凡例として取沙汰される倉敷に生涯を投じたことは深い訳がありそうである。それを解明しながら、その作品を見ていくことにしよう。

  まず、本書が筆者の手元に舞い込んできた経緯から説明しよう。偶々であるが、筆者がかつて在籍していた企業に、本書の企画・発行した掲題本人の長男、浦辺太郎氏も入社していたのである。年代が違っていたので面識は全くないが、その彼が本書を会社に寄贈したくれたのだった。それを受けた当時の副社長富山信幸氏は筆者と同期で、当時筆者が我孫子で、景観まちづくりに腐心していたのを知って、参考にでもしたらと、寄贈者の了解を得て送ってくれたものである。

  頂戴して、手にとってみて、倉敷のまちづくりにこんな深い渕源があったのかと思い知らされたことをつい昨日のことのように思い出されるところです。

  それでは浦辺の作品に入る前に、倉敷のまちの成りたちと、浦辺が一生を捧げることになった背景を探ることの興味から入ることにしたい。

  その倉敷の吸引力と、浦辺の地元に対する情熱の発端を無作為に探索してみると、2つのキーワードが見つかった。その一つは京大の建築学科時代に教わった、アール・ヌーボーのオランダの建築家デュドックが、終生故郷のヒルヴェルスムという小さい町で、その町の公共建築の設計を続けたことに相当の感銘を受けたらしい。その作品という「ヒルヴェルスムの小学校」や「ヒルヴェルスムのタウン・ホール」を大原總一郎の外遊時にぜひ見てきてほしいと懇願した時、總一郎も素直に応じ、前者については「ナイーヴな印象を受けた」と言い、後者のタウン・ホールについては、「ひなびた趣の強い、田園建築物的なデザインを特徴としていた」ことなど帰朝して克明に浦辺に報告している。その過程が浦辺の心の柱にもなったのかと思われる。
倉敷の観光案内所
倉敷館(旧町役場)「日本の風景画」より筆者のスケッチ 

  第二のそれは、この文脈からすれば、故郷での就職となれば役場ということになるが、当時の人口5万の町役場(右上スケッチ.)に、帝大卒などを受け入れる場所もなければ勿論建築課などの組織もない。そこに、旧友守谷正が、同期生でもあった次代を担う大原總一郎との慫慂(ショウヨウ)もあって、倉敷絹織(現クラレ)に営繕技師として月給65円(一般社員は60円)で入社することになる。そうなれば当然ながら、経営側の大原家との関係が最大の問題になるのは当然のことだろう。
 そこで倉敷のまちと大原家について言及したいと思う。現在の倉敷市は中核都市としての規模ではあるが、近年になって有名なのは昔ながらの町なみを市民、行政が一体になって保存、修復、復元につとめているからである。その民意のリーダー格になっているのが、浦辺が関わることになる倉敷絹織の大原一族ということになる。
1980年(昭和55)倉敷市庁舎。第15回日本デザイン賞。平成10年公共建築100選。本書写真より筆者のスケッチ

 遡ってみれば、江戸時代の倉敷は天領として保護され、倉敷川沿いに栄えた物流の拠点であった。その後、問屋制家内工業が発達して、多くの商家が集まったのである。中でも川畔の終点に近い大原家は明治中期以降、当主の大原孝四郎が周囲の新田開発や塩田の経営などで財をなし、倉敷紡績や銀行などでも成功、倉敷を代表する財閥となったのである。次の代の大原孫三郎は更に業績を拡大、大原美術館の創立など都市文化の面でも名望家ぶりを発揮し、この一族が倉敷の民意を牽引していくことになる。

  そんな中にあって浦辺は同い年の大原總一郎に大いに傾注して行く。特に町づくり、経営の戦略コンセプトの明確な指示によってその作業は更に軌道に乗っていくことになるのである。
「ローテンブルグ」の街並み。ドイツテレコムの観光案内より筆者のスケッチ

  具体例を二つあげるなら、一つは孫三郎が親交のあった大阪愛染橋にある福祉施設の経営者である石井十次が更に病院を建設するときに、父から受け継いだ總一郎の病院建築のコンセプトは、医療の機能ではない、「入っただけで病が治る病院」のイメージの病院を創ってもらいたいということだった。これまでそんな患者の要望や夢から見た病院など考えもつかなかったものである。もう一つ付け加えるなら、總一郎が欧州の視察で、城塞都市ローテンブルグ(左スケッチ.)の復興に強い感銘を受け、倉敷がローテンブルグに劣る町ではないと、倉敷を日本のローテンブルグにしようと、浦辺を牽引していったのである。
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