我孫子の景観を育てる会 景観あびこ_title 第110号 2022.7.16発行
編集・発行人 中塚和枝
我孫子市緑2-1-8
Tel 04-7182-7272
編集人 鈴木洋子
白樺派のまちの見える化 その2  - 城崎にて -   
 吉澤 淳一(会員)
  まちかどに佇む文学碑を三つのまちで見聞してきた。順を追って先ずは城崎温泉から。
  4年前に丹後地方に旅をした。天橋立や伊根の舟屋などの素晴らしい景観を楽しんだ後に、最大の目的地である城崎温泉 (下の写真) に向かった。
城崎温泉 川沿いの景観

  そこでは温泉の魅力もさることながら、実は志賀直哉の「城の崎にて」の舞台に触れることと、温泉街の彼方此方に佇む、そこを訪れた文 人たちの碑をこの目で見ることであった。

  城崎は日本有数の温泉であるが、他の温泉地にはない特色がある。柳並木の大谿川 (おおたにがわ の両側や裏通りに櫛比する風情のある旅館の内風呂はごく小さい。内風呂がない所もあり、ここでは外湯が普通なのである。お客さんは旅館で借りた浴衣に下駄を履いて、7つの趣の異なる外湯巡りを、旅館発行の無料パスで楽しむのである。だから通りは人の往来で賑わっている。通りのお店も繁盛している。各地の温泉地にみるような、大きなホテルや旅館の中に何でも揃っていて、そこでレジャーが完結するようなこと はなく、そぞろ街歩きといった一昔前の温泉街の風景が目に飛び込んでくる。外湯の佇まいがまた魅力的で、まるで老舗旅館のような立派な景観の建屋に皆吸い寄せられて行くのである。

  志賀直哉が逗留した三木屋は創業 300 年になる。大正14年の北但大震災によって一度は倒壊したが、昭和2年に再建され今では国の登録有形文化財になっていた。 (■104号「旅先の 1 枚」参照) そして志賀直哉文学碑は城崎文芸館の前にあった。

  この温泉街のもう一つの特色は、文学碑巡りである。志賀直哉はもとより、この地を訪れた島崎藤村、司馬遼太郎、有島 武郎、与謝野寛 (鉄幹 ・晶子など 24 基の石造りの文学碑が風情あるまちに点在している。

  幾つかの碑を紹介してみる。
・富田砕花・・・「城崎のいでゆのまちの秋まひる 青くして散る柳はらはら」柳湯前(下の写真)
富田砕花の歌碑

・与謝野晶子・・・「日没を円山川にみてもなほ 夜明けめきたり城の崎くれば」
・与謝野寛・・・ひと夜のみねて城の崎の湯の香にも 清くほのかに染むこゝろかな
※二つの碑は「一の湯」横に並んでいた。(下の写真)
城崎温泉
与謝野寛(鉄幹)・晶子の歌碑

・西坊千影(江戸時代の俳人)・・・「梅の香や御の湯あみの女から」御所の湯前
・司馬遼太郎・・・「往昔、当地は但馬の国城崎郡湯島村といい、畿内貴顕の湯治湯であった。桂小五郎、蛤御門の変ののち遁れてここに潜み、当館にて主人母娘の世話をうけたという。」旅館つたや前
・志賀直哉文学碑・・・「当城崎温泉に湯治療養中の著作『城の崎にて』『暗夜行路』は、城崎の佇まいをよく表現した名作として知られ、氏自身、城崎の印象去りがたいせいか、"直哉"と署名を寄せられたので建立した。」とある。(下の写真)
志賀直哉の文学碑

  城崎文芸館前"直哉"は、直筆碑はいろいろな形の石造りで、案内図を見ると多くは旅館や外湯の前等にあったので、巡りやすかった。

  しかしながら、多くの湯浴み客が行き交う中で、それらの碑に足を止める人の姿は見られなかった。夕方で薄暗くなってきたせいもあろうかと、翌日は昼間に巡ってみたがやはり同じ佇まいだった。屈指の温泉街の中での地味な石碑、読みにくい直筆文字の故でもあろうが、その脇役感に何か一抹のさみしさをいだいて街を後にした。

「城の崎にて」寄り道
  前述の原稿を書いているときに、妙なことに気が付いた。 この小説は「山の手線の電車に跳(はね)飛(と)ばされて怪我(けが)をした。その後(あと)養生(ようじょう)に、一人で但馬(たじま)の城崎(きのさき)温泉へ出掛けた。」から始まっている。

  志賀は何故題名のみに、城と崎の間に「の」を入れたのだろうか。ネットで調べると同じような疑問を持った方々がいて、他の城崎や城ノ崎と間違われないようにとか、「きさき」や「きざき」と読み間違えられないように、等と諸説あった。白樺文学館の学芸員さんに訊いてみたがその辺のことは不明ということで、それではと城崎文芸館に電話で問い合わせると、大正14年の北但大震災で当時の資料は焼けてしまってわからないという返事。その城崎文芸館の志賀直哉碑には題名の「城の崎にて」と地名の「城崎」が混在していた。

  ネットと言えばオークションで面白い売り物を見つけた。「城の崎風景五十景」という絵葉書である。それは題字を含めて字は右から左へ書かれていて写真はモノクロ、凡その時代はわかる。「の」入りの城崎はあるにはあった。因みに前述の与謝野晶子・寛の歌でも「城の崎」とある。

 私もいろいろと想像してみたがどうにもわからない。

  結局のところ、志賀は文字面(もじづら/字面・じづらともいう)から受ける印象を大切にしたのではないか。ネットの説にあるように、「きさきにて」とか「きざきにて」ではなく、「きのさきにて」と読んでもらいたい、そのために題字にルビを振るわけにもいかず、「の」を入れたと独り合点している。どなたか持論を含めてそっとご教示いただけることをねがっているところである。



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