― 我孫子の歴史景観を探る ― その(7)    (完)
歴史ある"湖北と中峠"、"中里と古戸" の散策
我孫子の景観を育てる会
名所解説

[1]歴史を想う湖北・中峠の散策
(1)中峠南古墳群
円墳10基、勾玉、ガラス小玉、直刀。周辺から須恵器、土師器が出土する。1号墳からは古墳時代後期の土器と金銅製の太刀装具が出土している。 古社・天照神社との関連性が深いと見られる。

(2)明神前遺跡と天照神社
 明神前遺跡は歴史時代の土師器、中近世の陶磁器を出土する。天照神社は日本武尊東征遺跡を伝える古社で中相馬七ケ村の総鎮守でもある。 その様な事からこの地は古来祭祀の場所であったとかんがえられている。
境内にある椎スタジー、銀杏は市指定の保全樹木

(3)正泉寺の大樹林
松(2)、銀杏(1)、今桜(2)、スダジイ(2)、アカガシ(2)、ユリノキ(1)、くす(1)、杉(13)に及び、一軒当りの保全樹木数は市最多数の24本である。
正泉寺の今桜 岡発戸八幡
(4)八幡の井戸(岡発戸)
「中相馬七ケ村(湖北)の七つ井戸」の一つ。大日井戸と呼ばれ、正月にはこれら七つの井戸から若水が汲まれていた。

七つ井戸はこの他に、下新木葺不合神社の"弁天の井戸"、上新木の"香取の井戸"、日秀の"将門の井戸"、中峠の"桜井戸"、湖北台八幡神社南の"元日の井戸"、湖北台東小学校の"井戸坂の井戸"がある。

"元日の井戸"、"井戸坂の井戸"は道路下になってしまった。 八幡の井戸は、現在ポンプ小屋が造られ利用されている。
八幡神社裏山の岡発戸斜面林
(5)古利根沼
年間を通じて生息している鳥は、アオサギ、コジュケイ、キジ、カワセミ、ヒバリ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、ヒヨドリ、モズ、ウグイス、シジュウガラ、ホオジロ、カワラヒワ、オナガ、ハシボソガラスなど16種である。
冬にみられる鳥類ではコガモ、ホシハジロ、アカハラ、ツグミ等4種がいる。春にみられる鳥はムナグロ、イソシギなどである。  
上根古屋の水神・山の神   高橋絵 古利根沼    高橋絵
また秋には寒天状の塊が浮き上がる。これはオオマリコケムシというコケムシの仲間の群体である。1mm程度の固体が集まったもの。この固体は触手があり、水流を起こしてプランクトンを獲って食べている(千葉県自然観察ガイド)。

昔の利根川は、JR利根川鉄橋下流から大きく蛇行して中峠の上根古屋の台地を直撃し、増水時には甚大な水害をもたらしました。そのため23年を要した水害対策の直流大工事が行われ、1930年古利根沼は取り残されて沼となりました。

江戸、明治時代の利根川は、江戸を支える物流の中心ルートで栄え、白帆のたなびく高瀬船や外輪蒸気船が毎日何百艘と往来しました。

こうして出来た由緒ある沼自然を大切に守ろうとしている人達がいます。その団体、"古利根と古利根の自然を守る会" は平成12年に 第四回景観賞を受けました。
(6)小堀(おおぼり)
昔の利根川はここで大きく屈曲していました。
対岸の中峠の台地は絶壁の上に森があり風を防ぐため往来する高瀬船にとって格好の休息地になりました。また風待ち、増水待ちの停泊地ともなり、人足の補給、荷分けして輸送する「はしけ船」の基地でありました。

順調な時は銚子から丁度一日でたどり着く位置にあり、翌朝ここを出て夕刻 関宿に着くと、翌日は江戸川を下って江戸の運河に入ることが出来ました。
また、中野治房邸屋敷塀のレンガはここで造られています。
(7)波切不動様
不動様は古利根沼の南岸に、コンクリートで土留されて崖中腹にある。石碑には平安の弘仁年間に手賀沼の草庵で弘法大師が刻んで、朝夕に礼拝したという不動尊が安置されています。

江戸初期の寛永7年頃、東遷工事で流路変更された利根川は、洪水時に水嵩が増し、城山の断崖は出水の度に崩壊しし続けました。そのご本尊を安置したところ周りは崩壊を続けたが、ご本尊の鎮座した所だけは残り、240年後の今日もいかなる激流にも崩壊はしないという。これはご本尊の加護によるものと以来波除不動尊と名付けた。昭和5年中島庄太郎とある。
(8)中峠城跡(古くは芝原城址)
市内にある最大の中世城郭、崩壊して見分けし難くなった空掘、土塁、腰曲輪などでT、U、V郭に分けられる。本丸は西突端部のT郭にあったと伝えられる。また近年の宅地化でU(二の丸)、V(三の丸)郭遺構の南半部は失われました。
土豪芝原某なるものの築城と伝えられる。芝原は当時の中相馬を包括する名称。法岩院の梵鐘銘文によると千葉末裔河村出羽守勝融公が天文10年(1541)に入城し、中峠城と呼んだという。

また遠く小田原城北条家の家臣河村氏は(別の記録では河村氏は古河公方家臣の河村氏と同族)、常陸佐竹氏との戦いの前線にあったが、豊臣・徳川勢の関東進出で制覇され、天正14年(1586)に討死との記述がある。周辺にある根古屋という地名は武士が住んでいた地名。
中峠城址図 ;中峠城跡調査報告書篠丸頼彦氏原図使用
(9)中峠上古墳群  円墳10基がある。
(10)順道塚
中峠城落城に伴う悲話が道順塚の話に残されている。北条氏が豊臣により滅亡された時、中峠城代の林伊賀守(後剃髪して順道と言う)は、主君妻子の先途を見届けて従士32人と共に自刃した。

塚の上には石塔が建っている。四代将軍徳川家綱時代の建立であるが施主は不明。この塚の所有者で、長年塚を守ってきた川村家は、元河村氏の臣林氏と伝えられており、塚に埋もれていた素焼きの五輪塔残欠を保存している。

また村誌によると家臣の川村氏は"担い塚"に寛永3年水神宮石祠(ほこら)を建て沼に沈んだ武士たちの霊を慰めたと言う。中峠城の落城に関わる伝説は悲惨な戦いであった事が偲ばれる。
立入はばかる順道塚杜
(11)中峠北古墳群  円墳8基があり横穴式石室、組合せ石棺が出土している。
[2]中里と古戸
(21)星野家長屋門
星野家は江戸時代初期からの旧家。長屋門は、地位ある家の象徴で明治30年頃作られたと言われます。関東大震災で屋根瓦が破損したため、葺き直し漆喰止め、壁は漆喰で固めたナマコ壁としています。現在は門両脇を店舗に改築していますが、本来は倉庫と家屋として使われていました。
(22)中野家の椎
中野勝馬氏の屋敷は大谷石の大きな塀に囲まれているが、門入口左側に幹周り3.3mの椎の巨木がある。昔から酒屋新宅の椎スタジイと呼ばれて親しまれた大樹です。

この椎の木のほか、榎(えのき)が保全樹林に指定されている。中野家は治右衛門あるいは酒屋と称され農業と酒造業を営む豪農で江戸時代、代々旗本内藤領の名主を務めた。中野家は幕末に火災にあい旧宅を消失した。日本博覧図に掲載された家は火災後の新邸で、スケッチ画の中野治房邸の四足門はその当時の門である。
明治27年日本博覧図に掲載された中野治四郎邸 現中野治房邸
中野邸付近の中里道 中里一里塚
中野治房は 植物学者,手賀沼の水藻の研究で理学博士となり、東大教授、湖北村村長の要職につき、若者の教育にも尽力した。酒造所の1棟を小学校の建設に使用もしました。槙の木は保全樹木。赤レンガの塀とがっちりした四足門のある家。野口英世を後見し、東京歯科大の創設者である血脇守之助も寄宿したことがある。

スケッチ画には書斎と右手の書蔵がありますが、博覧図の後、馬止めの玄関を書斎に改造し、門右手に大学退官後に書蔵を造ったという。レンガは博覧図当時すでに使われていたと現住の老婦人から伺った。
(23)鯖地蔵と増田邸の椎
鯖地蔵は弘法さんが右手に]大きな鯖をぶら下げて立っている様である。弘法大師が巡錫中に潮鯖を積んだ馬が通りかかった。大師は其れを乞うたが馬方は惜しんで与えなかった。そのため報いを受け馬が病気に罹ったという話。このサバは魚と見るか生飯(さば)の意味であるとする説がある。

我孫子で鯖地蔵のある寺は、中峠照妙寺、日秀観音寺、上新木青年館、葺不合神社境内、勝蔵寺、延命寺、(緑)大光寺等で中里〜布佐に多い。

鯖地蔵の向えの椎巨木は、枝木が道路に張り出している。片町四郎兵衛宅の椎と呼ばれて愛され続けた。市指定の保全樹木。宅地南にはツバキの垣根がある。椿の垣根沿いに小道に入ると屋敷を囲む大樹林に圧倒される。
(24)中里一里塚
バス停;湖北支所前にあります。東我孫子の向原一里塚と共に市内で現存するただ二つの一里塚です。湖北村誌によると、豊臣秀吉から80万石を賜り天下六大将となった平安末期からの豪族水戸城珠主佐竹義宣は、鎌倉往還を改廃し佐竹街道を築き、往来の便を計って榎を植えた一里塚を設けたといわれます。従って我孫子に現存す      る二つの一里塚は、歴史上の貴重な一里塚なのです。

主要街道の一里塚は、道路工事の拡幅で何処も消失しました。都内では国指定史跡となっている北区西原と板橋区志村がありますが、千葉県では殆ど知られていないようです。中里の一里塚は現在庚申等ほかの信仰の建物が集まっていますが、東我孫子の向原一里塚は元来の姿で残されて居ます。
(25)野守遺跡
縄文・歴史包含地。
最近の発掘調査結果によると、古墳末・奈良〜平安の大型竪穴建物が集中しており、畿内の土師や須恵器が出土している。当時の役人が身につけた帯金具も出土している事から当時の郡役所(日秀西遺跡)で働いた郡司が当地で暮らしていたと考えられる。

道路遺構もある。また相馬郡家付近は平安時代には常陸国に向かう東海道が通過していたと考えられる。そして出土した墨書き土器から「相馬郡於賦郷」の地と推定でき、「於賦駅」の存在の可能性が高い。
野守遺跡出土品 ; 我孫子市教育委員会資料
(26)桜井戸と東鼻村景色スケッチ四題
湖北七つ井戸に一つ。 現在はコンクリート管で保護された丸井戸でしめ縄が張られて保存されている。
"ラビリンス" 坂上の五本路 古戸稲荷     高橋絵 
五斗蒔の春  大久保の坂"タイムトンネル"    高橋絵
(27)大久保遺跡
縄文前〜中期、古墳〜奈良時代の住居跡16軒、8〜9世紀下級官人の銅製帯金具があり、相馬郡郡司官の物と見られている。
(28)大井家の椿生垣と椎      高さ1.9m、幅1mの山茶花と椿の生垣がある。樹齢は160年を越えるという。門入り口左にある2本の椎古木は、幹周り2.5〜3m、樹高9mを越える保全樹木です。
(29)照妙院         道沿いのむくろじは幹周りは約2mもある大木である。中国が原産地。径2cm程の種子は正月の羽根突き用羽根玉に使われている。
(30)竜泉寺         弘法大師の開いた寺院と言われているので古いお寺です。将門の乱で消失したと言われ、度重なる火災を受けております。明治22年(1889)には湖北小学校の前身、湖北尋常小学校が当院に開設され、湖北村の中心的存在であり続けました。
[その他]
七ツ塚・十三塚
中峠中里には七ツ塚がある。星野家裏の塚は氏神稲荷が祀られてある。星野家の伝えでは中里を開発した7軒の氏神を祀った塚といわれる。中峠の十三塚も芝原村を開発した13軒の旧跡とされている。
*鹿島前遺跡と塚之越塚 
鹿島前遺跡は成田街道沿い中峠台の一角にあり、旧石器時代後期の先土器包含地、縄文・古代・歴史集落跡。

我孫子で最初に発見された道路遺構は墳墓跡下にあります。12世紀相馬御厨寄進文書の南限を示す表現で、我孫子の台地を貫く道路のあった事が想定されますが、この道路遺構との関連性が生じました。

調査当時の地図には道路遺構の上に現存の小路があり興味深い。出土品の永楽銭中心のいわゆる「六道銭」と土鉱墓は室町末〜江戸時代のもで、道路遺構は室町末期以前と考えられる。
鹿島前遺跡南部の道路遺構位置図
西側から見た写真  古代交通研究 第七号より引用 鹿島前遺跡周辺      

塚之越塚は鹿島前道路遺構の位置図右下が字塚之越です。
中近世のもので113基の塚。塚に伴う銭貨・鍋・数珠・煙管などの遺物がある。銭貨は所謂六道銭といわれるもの。永楽通宝が多いことから15世紀以降、16,17世紀と言われる。中峠共同墓地,長光院ある古石塔は、戦乱が収まりようやく生活に落ち着きを取り戻した江戸時代初期、寛文(1661~72)年間以降に建てられたものであるという。
以上(全完)
平成18年8月
文責・梅津
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