― 我孫子の歴史景観を探る ― その(6) 根戸・布施の縄文道 と 戦国城址・我孫子宿の散策 |
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我孫子の景観を育てる会 | |||||||||||
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[1]根戸・布施の縄文道 注;解説のないガイドbヘ欠番としています。 | |||||||||||
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Bアビコビレッジ公園 (4号公園)は、団地内の林のようで、リフレッシュできる公園です。 つくし野中央自治会の行っている公園、道路・中央分離帯などの公共スペースの清掃活動、街かどに四季折々の花々を植える美化活動などの景観づくりを行っていることが評価されて、平成10年景観奨励賞を受賞しました。 Cメタセコイア公園 (5号公園) は、春は新緑、秋の紅葉と四季それぞれに印象的な美しさがあります。 メタセコイアはスギ科の落葉高木、幹は高く直生し、細い枝に葉が密生、冬には小枝が葉の付いたまま落ちる。分布は中国中部。白亜紀以降、第三紀に地球上に繁茂した植物。日本では第四紀に消滅した。そのため化石に基いて命名された名前です。当時現生種に類似のものが知られていなかった。その後中国四川省で現生種が発見されて「生ける化石植物」として話題になった。巨木として知られるアメリカのセコイアに類似する。セコイアの葉は枝に互生するが、メタセコイアは対生する点が異なる。 |
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縄文前期(関山・黒浜)貝塚、古墳(五領)時代集落跡 − 布施弁天を中心とした御厨の布施郷があった地域である。布施に通じる道は「常陸北路」の大路であろうが併行する脇道は我孫子の布施にも多数あったと思う。 縄文時代遺跡の分布から想定される。近くの久寺家の尾根沿いには中谷遺跡、上居村付西遺跡、布施宮前の宮前遺跡などの縄文〜歴史時代に亘る複合遺跡がある。 |
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[2]我孫子城址と我孫子宿 | |||||||||||
J久寺家城址と K宝蔵寺 | |||||||||||
●宝蔵寺境内東の台地がその位置。畑の東寄りに素掘りの井戸は重要な中世遺構の一つ。台地は岬地形をなし、その久寺家城は、久寺家の谷と泉の谷の出口に位置し、その昔は藺沼(いぬま)(常陸川)沿いの湿原(現在の北新田一帯)に出る渡船場を見張る要害の地にあったといえます。 ●我孫子左衛門但馬守が城主の城主の支城で、土塁を築いただけの簡単な平山城です。城址から文明6年(1474)と永正18年(1521)刻銘の板碑が出土している。 ●現在は元和3年(1617)建立の宝蔵寺という寺がある。 同寺の大銀杏イチョウは保全樹木に指定されている。以前は朝晩の6時に鐘を打っていたが朝は付近から苦情があり晩だけとなった。晩鐘が音の風景を造っている。大学側に抜ける坂道は「でえこおろしの坂」と土地の人の呼ぶ坂だが、今は良く舗装され、坂に沿った宝蔵寺の擁壁は坂の上部を大石で組み、下部は小さな溶岩を使用した擁壁で全体として石の美しさを現した素晴らしい景観を造っている。 |
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M鷲神社(久寺家) 将門の家臣で久寺家豊後大炊左馬之助氏の氏神で古くは「明神社」、鎮守鷲神は元文2年(1737)の創建と言われる。祭神は日本武尊。大鳥(鷲)神社、お酉様として一般に知られる。日本武尊が白鳥として三遷されたと言ういわゆる白鳥伝説に由来する。江戸の酉の市は「取る」に通じるとして縁起を担いだ催し。宝暦、明和年間(1750〜1760)頃は相当な賑わいを見せたという。 |
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R脇本陣跡・小熊邸 脇本陣は平屋、屋根は分厚な茅葺である。天保2年(1831)建築。公用客室は式台玄関、控え室、書院造り客間、床の間など計30畳武具置場もある。私宅は客室の西側にあるが巧みに仕切られ、庭には屋敷神の天神様、厩舎、土蔵、物置、がある。大欅ケヤキのある北側は馬繋ぎ場であった。 そのケヤキ(1)が市の保全樹木に指定されている。 |
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<その他の名所> (1)日立精機1号墳 ●我孫子古墳時代後期の7世紀前半の前方後方墳。おそらく日立精機1号墳は我孫子古墳群中で最終段階の首長墓である。 ●この時に古墳の形が何故か前方後円墳から前方後方墳に変わっています。石室の発達過程から見ると、四小古墳−日立精機2号墳−同1号墳の順に連続する三代の首長墳と考えられている。東の子の神、高野山の古墳には埴輪を持つものが多いが、白山、日立精機の古墳では埴輪は見当たらないと言う特徴があります。 (2)日立精機2号墳(緑化協定区域) ●我孫子古墳時代後期の7世紀前半の前方後円墳。日立精機JR側の緑地協定区域内に、少し盛り上がって中央部に深い窪みのある古墳があります。元来はもっと多くの古墳があり、古墳群を形成していたと考えられます。 2号墳は3段築造で長さ30m、高さ2.5m、前方部幅21m、後円部径18mです。墳丘の周囲には堀があり、中央部には横穴式石室があります。盗掘のため遺体や副葬品は有りません。 ●6世紀においては子の神と高野山では、勢力の中心が世代によって異なる古墳群の間を移動していましたが、7世紀は入って日立精機周辺に集中するように変わり、我孫子地方の首長権が特定の家族によって世襲的に継承される段階に変化したと考えられます。 |
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平成18年6月 文責・梅津一晴 |
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