あびこの歴史景観を探る− その(1) “道”       歴史部会 梅津一晴・高橋正美
飛鳥時代、元々「 総の国 」と呼ばれていた房総半島は、 大化の改新(645)で上総と下総に分けられ、東海道で京に近い方を上総、遠い方を下総と呼びました。天皇家の香取神宮への参道は重視されていたため、 総の国と中央は後に万葉集で歌われるなど、強い関係で結ばれていました。香取海地域には「御厨」という天皇家の財政と関わりの強い伊勢神宮の荘園もありました。 その頃我孫子は、東海道に組替えられていました。7世紀後半の手賀沼周辺は下総国の葛飾郡と相馬郡で、相馬郡の布佐郷(布佐)、意部郷(青山付近?)、 大井郷(水街道付近)がありました。当時の東海道は、相模国府・三浦半島から海路で富津付近に渡り、上総国府、河曲を通り、 香取神宮参道への分岐駅の荒海を経て常陸国府に通じました。

奈良時代には駅伝馬制度が確定され、東海道は宝亀2年(771)に相模国から武蔵国に至る陸上ルートに変更されました。 そして市川の下総国府、松戸から沼南町大井を経て大津川を下り、手賀沼を渡って根戸に上陸し、布施の「七里の渡り」で利根川を渡る「常陸北路」を取っておりました。
・平安時代の下総国の駅は、井上、茜津(あかね),於賦で各10匹、浮島、河曲で各5匹の駅馬が配置されていました。 北柏駅南口付近に発見された8世紀頃の於賦駅と見られる集中した住居址は当時の遺跡です。

鎌倉時代、源頼朝は治承4年(1180)鎌倉に本拠を置き中央集権のため道つくりを行ないました。  (鎌倉街(鎌倉往還)と鎌倉みちは「■景観あびこ9号」参照。)

豊臣秀吉の時代、八十万石を賜り天下6大将の一人となった豪族の水戸城主佐竹義宣は、 鎌倉往還を改廃し一里塚のある佐竹街道を築き往来の便宜を計りました。佐竹街道は布佐台から利根町中田切、龍ヶ崎市を経て常陸太田市へ通じていました。

徳川の代となり家康が佐竹義宣を秋田に移封した後、水戸は徳川水戸藩の居城となりました。 天和元禄5年(1692)佐竹街道は柴崎・青山を経由する陸前浜街道;通称水戸街道に変わりました。奈良時代から常陸北路と呼ばれた布施街道は、 水海道を通る水戸街道の脇街道でしたが、享保15年(1730)戸頭と土浦間の道が完成すると本街道よりも利用が多くなりました。渡し場の布施は、 田圃の中の小山でむかし湖の中の島であったそうですが、弁天神社もあり大変栄えました。その由来は平安初期に始まったといわれます。

水戸街道から布佐・成田に行くのは「鹿島道」です。 元禄年間、成田山新勝寺が庶民の信仰を集めるようになり成田に向かう幾つもの路が開けると、鹿島道は成田街道と呼ばれるようになりました。
房総には「なま道」という産業道路が幾つかあり生ものや塩干物を運びました。 その一つが布佐河岸と松戸江戸川沿いの納屋河岸を結ぶ馬道約30kmのなま街道です。松戸からは船で運んで江戸日本橋の魚市場に運ばれました。 タイ、カツオ、マグロなどの鮮魚は一刻も早く江戸の魚市場に送る必要があり、銚子を夕方出た荷は3日目の朝の魚市に間に合いました。

当時、江戸への消費物資は日本各地から「千石船」と呼ぶ帆走船で海上輸送されました。 寛文年間(1661〜73)には銚子から利根川、江戸川を経て、江戸に至る内陸水路が開かれ、大型高瀬船が利根川を上り関宿から江戸川を下り日本橋に行けるようになったそうです。   終(梅津一晴 記)


叙景  短歌 ―はけの道にて―
    斜面林に沿うはけの道を歩みゆく
    直哉実篤行き交ひし道

    実篤も直哉も歩みしこの道を
    われひとりゆくやすらぐ思ひに

            新あららぎ会員 田口ふみ
            (我孫子の文化を守る会会員)

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