◆三樹会だより(1)
 
三樹会世話人  瀬戸 勝
【会員からひとこと】  私の近況
浅野純子(つくし野)
冬広報に頼んで「三樹会だより」のコーナーを設けてもらいました。

 三樹会が三樹荘と天神坂の清掃活動をはじめたのが今年の3月でしたから、もう半年がたちました。
 その間順調に活動を続けられたのは、
○ 会員の皆さんの見事なチームワーク
○ 清掃後、庭内のあずまや「あすなろ亭」で、心づくしのお茶菓子を頂きながら村山先生との楽しい語らい。
のおかげと感謝しています。

 今後共、我孫子の貴重な文化資産の維持保全に努力してまいります。

【トピックス】
 9月7日、台風は日本海にそれたのに一日中強風が吹き荒れ、三樹荘、天神坂共落葉の量もさることながら、太い木の枝が散乱していたのには驚きました。

 台風の威力を見せつけられた思いでした。


我孫子に住み着いて二十七年、わぁー私もそれだけ年齢が増えたことになります。

 そういえば、八月頃から右膝に痛みがあり、そのうち、座ることもままならず、しぶしぶ整形外科で診察を受けた結果、老化現象と診断されました。 アァ・・・やはり来るべきものが遂に来たかと思うとともに、私自身、心も気持ちも健康を自負していたのが、やはり年相応に体もすり減っているのだなぁーと実感している次第です。

 只今、娘とのんびり九十九里の温泉につかりながら、膝の治療中です。少しは良くなるといいなーと願いながら・・・
 三樹荘のサポーターとして、早や半年近くになりました。木々の中での落葉の清掃は、真夏でも暑さが気にならず、オゾンを胸いっぱいに吸いながら、 樹齢何百年の大木の歴史の重さをひしひしと感じます。

 あずまやで、村山先生を囲んで会員の皆さんとお茶を啜りながら、会話が弾み、楽しいひとときを過ごさせて頂いております。
 末永くお付き合い下さいますよう、宜しくお願いします。

 次回は伊藤さんにバトンタッチです。
あびこの歴史景観を探る― その(3)  梅津 一晴(会員)
利根川

利根川は上越国境の山岳に発し、赤城山を東に見る草津から流れる吾妻川と合流し、関東平野で更に碓氷川、鏑川、烏川、 思川などを取り込み、関宿で江戸川を分流します。東流する本流は鬼怒川、小貝川、霞ヶ浦などの川水を飲込んで銚子で太平洋に出ます。

 「とねがわ」は万葉集に「刀禰川の川瀬も知らす たた渡り なみにあふのす 逢へるきみかも 」と歌われ、源平盛衰記では利根川が使われています。

 現在の利根川は、もとは香取海の後退で出来た藺沼(いぬま)に流れる衣川(鬼怒川)でありましたが、江戸時代の文禄3年(1594)に会の川を締め切り、 60年を要した赤堀川掘下工事で鬼怒川に通水させた連結川です。江戸幕府が、洪水から江戸を守るため利根川を江戸から遠ざける遠大な「利根川東遷プロジェクト」 でありました。

この結果、利根川が運ぶ土砂の量は古鬼怒川の運搬土砂に倍加し、 洪水時の流失土砂は木下付近では手賀沼に向かって沈積しました。そのため手賀沼水系の孤立化が進み、頻繁な洪水に見舞われるようになりました。  現在の布佐手賀川沿いの標高は4mですが、下沼田の手賀沼干拓地の標高が2〜3mであることはその事を示しています。

 以来、この地は水害との戦いを続けました。 関東郡代の伊奈半十郎忠治は、利根川東遷前の寛永7年(1630)、布佐・布川間の開削工事を行ない 古鬼怒川の流路を南に変遷し、新田開発を目指して下流の洪水を無くそうとしましたが、かえって手賀沼の洪水は増大し手賀沼の水位も高くなりました。そのため六間掘、 続いて寛永13年(1636)に弁天堀を開削して排水しました。 

■次号に続く

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