我孫子の景観を育てる会 第26号 2008.4.19発行
シリーズ「我孫子らしさ」(3) 「我孫子らしさ」についての個人史的意見     田中 和夫(会員)
前々回の「景観あびこ」で高野瀬さんが問題提起された「我孫子らしさ」について、前回の富樫さんに続いて私見を述べさせていただく。

我孫子で生まれ、約20年を過ごした私にとって、原風景としてまず浮かぶのは、我孫子駅前にそびえ立っていた石橋製糸の工場と、同じく駅前にあった木造の自転車置場である。幼心に、工場の影で薄暗く、機械の音がこだまする道は恐ろしく感じられた。1970年代後半のことである。中学生の時、工場はイトーヨーカドーに姿を変えたが、その光景は不思議と脳裏に焼き付いている。ただしこれは心象風景として暗い部分に当たるのかも知れない。明るい部分は、家族や友人と一緒に思い出される、手賀沼遊歩道や数多くの坂道、利根川沿いの土手、そして母方の実家のある布佐の街並みといったところ。当たり前に過ごした日常を彩る背景のようなものであり、当時から「我孫子らしい」景観として意識していたわけではなかった。

「我孫子らしさ」を意識するようになったのは、大学進学とともに東北で一人暮らしを始めてからである。年2、3回程度我孫子に帰郷するたびに、街並みが目まぐるしく変化し、戸惑うことが増えたからだと思う。以降、時間を見つけては、坂や森、ハケの道、そして手賀沼など、記憶の跡を辿るべく、自転車で巡るようになった。

近年の開発は小奇麗にまとめられ過ぎていて、どこの駅を降りても同じような駅前広場とコンビニ、そしてショッピングセンターが立ち並ぶ様は、訪れた時の新鮮な気分さえも奪ってしまう。最近はそれらにマンションが加わり、いよいよ地域性は稀有のものとなってきた感がある。ここ数年の我孫子の開発も、残念ながら例外ではない。
良好な住環境を作ることに異論はないが、手法として、大規模な開発による整備ではなく、それこそ「我孫子らしい」、新旧混在のまちづくり手法があるはずだと期待していた。かつて我孫子駅北口にあったダイエーが姿を消した時の衝撃は大きかったが、それを上回る規模で、要塞のようにマンションが立ち並ぶ姿は、我孫子ってこんな街だったかと、新たな衝撃をもたらした。

最近、私の実家のある地区でも、高層マンション建設計画が出たことを知った。小さい頃からの遊び場だった、通称「みどり池」を含む緑地帯が埋め立てられ、整地されてしまうというのは、従来の発想では考えられないことだった。土地の歴史を無視した乱開発は、後世へ大きな負債をもたらす。

街の発展と、歴史的風土・文化的資源の維持保全は、対立概念として捉えるものではない。新旧混在の文化を育てていくことが、よりよい我孫子を創出することに繋がっていくのだと思う。

職場の同僚に、我孫子に終の棲家を探し求めている方がいる。二人で我孫子話に花を咲かせていると、かつて過ごした思い出の地としての我孫子を話している自分がいる。我孫子を離れて7年目を迎えるが、私の原点であるという意識は常に持っている。

今回は「我孫子らしさ」という概念に対し、心象風景的な面からのアプローチを試みたが、曖昧なまま終わってしまった。今後、「我孫子らしさ」について自信を持って紹介出来るよう、当会の活動を通して皆さんと一緒に考えていきたいと思う。
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