我孫子の景観を育てる会 第28号 2008.10.18発行
シリーズ「我孫子らしさ」(5) 憧れの常磐線と我孫子の道                町屋 伸一(会員)
私が我孫子に赴任してから3回目の夏が終わろうとしている。仕事で出てきているのだからそれが第一なのは当然のことであるが、単に勤務先と家を往復するだけの生活では地域や人生は豊かにならないという、とある講座で習った発想から、なるべく地域と関わろうという気持ちを持って生活するよう心がけてきた。

栗駒・仙台・盛岡、東北でしか暮らしたことのなかった私に我孫子への赴任の話が出たとき、私が真っ先に考えたのは「常磐線沿い」であるということだった。私と常磐線との出会いは学生時代の旅行であった。90年代の半ば、まだ駅周辺での野宿がなんとかなった時代、友人と鈍行列車だけで盛岡から広島まで行くということになり、東北本線でゆっくり南下していたときのこと。栃木県に入るか入らないかのところで信号機のトラブルにより列車は先に進めなくなった。予定ではその日のうちに都内に入り、東海道本線で行けるところまで行くことになっていた。東北本線がなかなか復旧しないので時刻表とにらめっこをして別のルートを探すと、郡山まで戻って水郡線で水戸まで出て、水戸から常磐線に乗ればその日の夜には都内に着き、さらに臨時の夜行列車を使えば翌朝には岐阜県の大垣まで行けることが分かった。

こうして常磐線に乗った私は「道はひとつではない」という発見から新鮮な気持ちであった。それまでは東北から東京に行こうとすれば東北本線か東北新幹線を利用するという考えしか持っていなかったのだ。初めて見る景色。水戸を出発してしばらくの間は田園風景が広がっていたかと思うと、取手を過ぎたあたりから急に都会に見えてきて、関東地方の地理をよく知らなかった当時の私は利根川を過ぎるともう都内との区別がつかなかった。それ以来、用事で東北から東京に出るときは、時間に余裕があれば往復のどちらかは常磐線を利用してその車窓を楽しんだ。そして、いつか関東で暮らすことがあれば常磐線沿いもいいな、と考えていた。

縁があって憧れの常磐線沿いである我孫子で暮らすことになった私であるが、とにかく毎日の新しい発見が楽しく、そしてそれは今も続いている。「一都三県はどこも似たようなもの」という認識は大きな間違いであったことにはすぐに気がついた。上野から常磐線快速で35分ほどのところにはまだ豊かな自然が残っていた。
平野に広がる空と田園風景、そして夜の星空は盆地での生活が長い私にとっては新鮮である。大学で応用生物学なるものを学んだ私でさえあまり見たことがなかった生き物も生活道路で見かける。多くの自然と触れ合うことができる都会に近い街、これが、私が感じた我孫子らしさである。

こちらでは東北本線は宇都宮線、国道4号線は日光街道、国道6号線は水戸街道と呼ばれていることを友人から教わった。盛岡では単に「4号線」と呼ばれている道であるが、機械的に付けられた呼び方と比べ、歴史と親しみを感じる「街道」という響きは素敵である。魯迅の『故郷』という作品の中に「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」というくだりがある。作品中では比喩的な表現で使われているものと思うが、その道ができた経緯を意識すれば自分が歴史の中にいることを実感できるようになる。鉄道・道路を単なる移動の手段と捉えるだけではもったいない。

我孫子市内の「〜通り」という愛称を意識するようになった。あやめ通りを下ってあやめまつりを見に行った。あやめも良かったが、会場付近で昔ながらの方法でザリガニ釣りをする親子連れを見かけて嬉しくなった。湖北の商店街に出かける途中、団地の中を通り抜けるけやき通りに潤いを感じた。成田線沿線の懐かしささえ感じる風景を見れば、水空ラインという愛称も悪くない。公の愛称がなくても、感じるものがあれば仲間内で通じる愛称をつけてみるのも面白いかも知れない。

景観とは名所・旧跡だけのものではなく、日々の生活の中での気づきという、人間の意識にこそ存在するのではないだろうか。もともと地上には景観はない。気づく人が多くなれば、良くも悪くも、それが景観になるのだ。
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