我孫子の景観を育てる会 タイトル 第29号 2009.1.17発行
発行人 吉澤淳一
我孫子市つくし野6-3-7
編集人 飯田俊二
シリーズ「我孫子らしさ」(6) 私にとっての「我孫子らしさ」とは         伊藤 紀久子(会員)
ある時、親戚の者より「我孫子」に住まないか?と声を掛けられた。長野県南部方面出身の我が家では、「我孫子」という地名を聞いても全くといってよい程知識が無くしばらくそのままになっていた。再度声を掛けられ当時世田谷に住んでいた祖父に相談したところ、「我孫子には名門ゴルフ場があり、手賀沼という風光明媚なところもある」との話であった。それでも直ぐには気がすすまなかったが、思案の結果、昭和48年の暮れ武蔵野市より転居して来た。

当時私は家族がそれぞれ出かけた後ひきこもり状態であった。何年後かに縁あって我孫子市の社会教育課の一端の仕事をすることになり、シャワーを浴びるがごとくに我孫子を知ることが出来た。

まず秋谷半七氏(我孫子市緑・東葛飾高校の教師を経て当時市川高校の教師)の「手賀沼と文人」の書に大変感銘を受けた。我孫子生まれの氏は、我孫子や手賀沼が様子を変えてしまったことに大変心を痛め、今ここに我孫子の良さ、沼の持つ力の素晴しさを後世に伝えようと矢も楯もたまらない気持ちで筆を持たれた。

沼の力とは・・・人の心を鎮め・慰め・ゆとりと勇気を与える力がある。かつて多くの文人・芸術家はこの力を信じ我孫子に寄って来た。

嘉納治五郎は、手賀沼をテムズ河に見立てテムズ河畔に建つイートン・スクールの印象を胸に我孫子に学園建設の構想をもっていたが、残念ながら実現はしなかった。

やがて嘉納治五郎の案内で柳宗悦が住み、兼子夫人のきれいなすきとおった声は沼まで聞こえたと言われる。当時は地元の人々との交流は少なかったが、目の覚めるような美しい方であったとのこと。この兼子夫人のレシピが今日の「白樺派のカレー」である。イギリスの陶芸家バーナード・リーチが柳家の敷地の一角に窯を築き芸術活動をしていた。

当会では平成19年「日本民藝館」を訪ね柳宗悦の主旨や考え方の一端を学んだ。柳のすすめで志賀直哉がそして武者小路実篤が我孫子に一時期住まうこととなった。
志賀直哉はそれまでの父親との不仲の関係が我孫子時代に修復され「和解」の名作となった。しかし我孫子ではお子さんの死という悲しいこともあった。

武者小路実篤はあたらしき村の構想を立て日向へと向かった。「銀の匙」の中勘助、改造社の滝井孝作が沼の持つやすらぎを求めて一時期我孫子で生活をした。

朝日新聞の大記者といわれた杉村楚人冠は我孫子を生活の場として暮らし文化・経済に寄与された。

その他利根川水運で栄えた頃の布佐の賑わい。又気象博士岡田武松、民族学者柳田国男の交流。大正から昭和の初期、我孫子の教育は高い評価を得て各地からの視察があった。また湖北方面からの行商の女性は、都会からの帰りに子供に「本」を買って来たり文化を伝えたりしたと言われる。また湖北方面の経済の潤いでもあった。

我孫子には我孫子独自の歴史・文化があることを認識した。さてこれを「我孫子らしさ」にどう繋ぐかを考えた時、現在我孫子に住んでいる私達が「我孫子」をよく理解し誇りを持つことが大切と思う。

我孫子にふと降り立った人が「我孫子はどんなところか?」と尋ねた時、一つでも自信をもって語りたい。

我孫子を知る講座に定点観測的なカリキュラムではなく、「我孫子の全体像」をとらえた講座を希望したい。

この稿の締め切りも近づき、考えながら我孫子駅に降りた時、南口の広場を20名近くの老若男女が明るい表情で清掃をしていた。そして道を尋ねる人や乳母車の若い母親になにげない励ましの声掛けをしていた。

他人にさりげない優しさを掛けられること、これぞまさしく「もてなしの心」かと思う。我孫子に「もてなしの心」があることが「我孫子らしさ」の一つになると良いのではないかと思う。
余談になるが、これを機会に再度「和解」・「友情」を読もうと思った。
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