我孫子の景観を育てる会 | 第30号 2009.3.21発行 発行人 吉澤淳一 我孫子市つくし野6-3-7 編集人 飯田俊二 |
シリーズ「我孫子らしさ」(7) 我孫子らしさを道に求めて! 足助 哲郎(会員) | |
●「我孫子をうたう!」と題するコンサートを、2月28日に湖北地区公民館で開きました。この準備のため昨秋から、我孫子ゆかりの歌・唄・詩の取材のため、正泉寺・三樹荘・白樺文学館・けやきプラザ・アビスタ・こもれび・小中学校をはじめとする市内各地の関係先をできるだけ徒歩でまわってみて、あらためて我孫子の道について考えさせられました。 ●くだんの公園坂通りは、歩道の幅と高さはもとより、民家と商店と廃家屋の混在は景観的にも我孫子の表玄関通りの顔としてはお粗末極まりないことを再認識しました。やはり一日も早い再開発が望まれますが、まず現状の道に、歩く人の気持ちになって、幅と高さを直す手を加えてみてはどうでしょうか。今の道では観光客はまず歩く気にならないでしょうし、私自身、最近公園坂通りを避けて脇道を歩くようになりました。 ●明治29年常磐線鉄道が開通し、人の行き来が増え、大正初期以降は白樺派文人が我孫子に移り住んできました。柳宗悦も志賀直哉も東京へは我孫子産のコメや野菜をどっさり持って行き、我孫子へ帰る時は肉などを仕入れて帰ってきたのでしょう。小説「十一月三日午後のこと」に志賀が鴨を買い求めに、成田線の踏切を渡り、東源寺脇を通って柴崎に向かったという記述があります。どの道だったのだろうかと自分なりになぞってみましたがよく分かりませんでした。東我孫子駅の近くには旧成田街道沿いにあったに違いない一里塚跡は我孫子宿から4km。旅人たちはそこで小休止して弁当を使ったのでしょうか! ●私は我孫子に住んでから30年近く経とうとしていますが、我孫子を認識したのは、昭和34年大学入学のため上京した下宿先でのことでした。下宿屋のおばさんは定期的に通ってくる、我孫子をはじめとする東葛方面からの担ぎ屋のおばちゃんから、新鮮な野菜類を買って食事を賄ってくれました。現在13万5千人が集う我孫子は、若い人たちが移り住んでほしいとの願いを込めて、「住んで良い街、訪ねて良い街‐我孫子」を標榜しています。外からも観光客が訪れてくれることを期待していますが、ベットタウンとしても観光地としても、もっとにぎわうための施策が求められます。 |
●ウナギの寝床状に東西12kmに広がり、利根川と手賀沼の豊かな水と緑に挟まれたわが街我孫子には、世間と比較しても、歩いて心地よい道があります。車で来る人たちにもさほど駐車には不自由を感じさせず、特にJR鉄道駅が6つもある特異な街です。この地は鉄道の発達とともに担ぎ屋という特異な農文化を都会へ発信した歴史があります。そこで今度は都心からも近在からも我孫子へ来てもらうための方策としてこんなことを思いつきました。 (1)手賀沼遊歩道沿いに"1キロ塚"のお休み処を; 手賀沼沿いを歩く人たちに地元で採れる農産物でもてなす今様の"一里塚"ともいえる"1キロ塚"を作るというアイディアです。地元で取れた野菜料理などでお茶を飲みながら語りあうふれあいの風景を思い描くだけで楽しくなります。疲れたら近間の駅で電車に乗れば帰路につけます。観光客にとっては格好の日帰りで田園風景を楽しめる観光コースとなります。手賀沼遊歩道という立派なハードにソフトを付加するアイディアです。 (2)成田街道に駅前朝市を立ててはいかがでしょうか; 我孫子駅近くの356号線が大幅に拡幅されましたが、なんとも殺風景です。そこで、道路沿いで朝市を立てて近在の農家からの出店を促すというのはどうでしょうか!毎週土曜日か日曜日の朝、地元住民はもとより、近在から電車でも新鮮な野菜を求めて通ってくること必定です。 ●「我孫子をうたう!」コンサートでは、一昨年12月に当会主催で3年続けて開かれていた景観コンサートが、一区切りとなったのを記念して、作詞作曲されて初演奏された、「我孫子景観賛歌」を再演しました。老若男女で歌いながらこんなことを考えていました。 |
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