我孫子の景観を育てる会 タイトル 第32号 2009.7.18発行
発行人 吉澤淳一
我孫子市つくし野6-3-7
編集人 飯田俊二
シリーズ「我孫子らしさ」(9) −私の思う我孫子らしさの風景−         佐多 英昭(会員)
我孫子に住んで37年になる。私の思う我孫子らしさを感じている幾つかをあげてみる。我孫子の南に広がる手賀沼の存在だ。朝に夕に見える水面のある風景は、その色の変化、波の変化など見る者に様々の感動や、安らぎを与えてくれている。

台地から沼や田に通じる坂道も我孫子らしさの一つではないか。この坂道は生活道としての必然性があって生まれた道だろう。したがって必要な所に多くの坂道が生まれたのだ。坂道を下った所の突き当たりはハケの道となっている。ハケの道は車にとっては狭い道だが、元々人々が通るだけの道だったところなので、これで十分な道幅である。

もう一度台地の緑に目を移すと、手賀沼を見下ろす所に点在する根戸、船戸古墳や水神山古墳、寿古墳公園、子の神緑地の古墳などは、湖面を眺められるよい場所に築造されている。
祖先を大事にした心が伝わってくる。谷津は廻りを林に囲まれ、田や畑の平場から見廻すとなかなかの景観である。湖北台から見える谷津は私の好きな我孫子らしさのある所だ。この他にも谷津はあるが、そのいずれも斜面林と共に大事な谷津であり、我孫子らしさのあるところと思っている。

田や水辺から見る斜面林は、我孫子らしさを話すときに外せないものだろう。近年開発によって部分的に連続性が失われつつある。この斜面林を失わないように努めることが、我孫子らしさを失わないことに繋がるのではないだろうか。今後とも我孫子らしさの代表と言える斜面林保存に関して行政の強力な政策による関与が必要だと感じている。

 以上が私の思う我孫子らしさについての所感である。
私のみの景観の哲学的思考についての試み                          高野瀬恒吉(会員)
風景と景観と環境の言葉については、相関関係があり、どう使い分けしたらよいのかと私はいつも悩んでいます。

曰く、風景とは自然のものであり、景観は人が創造するもの、環境は自然と人為が醸し出す状態と言われる人もいますが、私にはなかなか割り切れません。

ところが、去る5月29日付け読売新聞夕刊「名作うしろ読み」の欄に、文芸評論家の斉藤美奈子さんの 「武蔵野」国木田独歩 という題名のエッセイが載っていました。

その一文ですが、"「武蔵野」の文学的な価値は「風景」を発見したことだといわれる。風景は最初からそこにあるのではなく、見る側の意識があってはじめて風景になる。"と定義付け、さらに"ツルゲーネフが書き、・・・云々中略・・・(独歩が)書いたのが「武蔵野」で、とりわけ彼の心に響いたのは四季折々に姿を変える落葉樹林だった。落ち葉の積もった林になど、独歩以前は誰も見向きもしなかったのだ。"(原文のまま)と有りました。

しかし、彼女は、"独歩の愛した落葉樹林は・・・人工的な林である。今の言葉でいうと「里山」に近い。
人の暮らしに近い自然"としています。・・・(以下省略)

私は、このエッセイを読んで、「景観哲学」に共鳴する何かを感じました。そこで考えてみました。

「環境」は、生きとし生けるものが、生きるために子孫を残すために、必死で対応するべき現場であり、「風景」は人間も動物(動物が風景を必要とするかどうかは分かりません)も結果として感性に訴えて認識している自然現象ではないでしょうか。しかし、「景観」は趣が違うようです。人間のみが感じ、創り、所有するものだと考えます。

最近「景観権」と言う語が脚光を浴びてきました。人間に特有の心象を実在する財産と認めて保存する程に、高度の解釈が与えられるようになったのです。

人間の思いが深く拘わっていて、人格形成に大きな役目を果たす景観には、既にそれらしい概念も生まれています。総ての物に貨幣価値を求めるご時勢とはいえ、いたずらに景観に経済的価値を求めることなく、心に響く哲学的思想を模索したいものです。
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