「美しい日本の歩きたくなるみち500選」
手賀沼と我孫子の歴史を訪ねるみち
名 所 解 説(その1)
「美しい日本の歩きたくなるみち500選」は、日本ウオーキング協会が国土交通省他の後援のもと現地踏査の上、歩行適正(安全性、快適性、案内性、魅力、・・などを基準に選定し、17年1月に発表した。千葉県では、10コースが選ばれトップに「手賀沼と我孫子の歴史を訪ねるみち」が選ばれました。

他は以下の9箇所です。
正式名称は省略して;千葉・水回廊、千倉・花畑と潮風王国、佐倉・香取神宮、習志野市-千葉市・谷津干潟、市川・歴史と文学、富山町・「とみさん」ふるさと、印西市-白井市・北総の自然、流山-柏市・利根運河と柏の葉、白子町・九十九里浜と南白亀川です。

以下、「手賀沼と我孫子の歴史を訪ねるみち」沿いの散策ルートを"我孫子の景観を育てる会"としてご紹介します。
尚、"500選のみち"は、鳥の博物館〜子の神大黒天ルートが旧成田街道経由となっておりますが、途中の成田街道、並塚古墳群は車道と宅地化で面影はありませんので、 その間の距離を1km短縮できるお遍路道を通る、全コース約6qをご紹介します。
(1)手賀沼公園とアビスタ
  手賀沼公園は四季折々の花々と沼の景観が一年を通じて美しい。 ひときわ高く風に揺らぐポプラ並木(平成9年度我孫子市景観賞)は大変印象深く心に残っています。しかし根元が健全性を無くし倒壊の恐れが生じたため平成16年の夏に伐採されました。代わりにスギ科の樹木メタセコイアが植えられました。そしてポプラを送る歌「ポプラ」も生まれました。きっとこの歌とともにポプラ並木は心象風景として生き続けるでしょう。
 メタセコイアは白亜紀以降世界的に繁茂し、日本では第四紀初期に消滅しました。60年前三木茂が化石に基いて命名し、その後で原生種にも類似のものが中国四川省で発見されたことから「生ける化石植物」として話題になりました。
 アビスタは市民文化活動の拠点となっています。建物は周辺環境を配慮して屋上は芝生、高さをおさえ、線を引きたてる色調を使っています。
<バーナード・リーチ碑>
  日本人を祖父にもつ。ロンドン美術学校で日本を知り、明治42年(1911)来日。柳宗悦の紹介で六代目尾形乾山の門下となり楽焼の研究に没頭。大正5年(1916)乾山の本窯を譲り受け、柳宗悦の我孫子別荘内に窯を築いた。同8年に仕事場を火事で焼失したことで我孫子での生活を切り上げた。

 彼の作品は、エッジング"手賀沼我孫子"(1918)と"巡礼者";b器鉄砂抜巡礼者模様皿(1960)が親しまれており、碑にはその"巡礼者"が刻まれている。

左写真は b器鉄砂抜巡礼者模様皿(1960)バーナードリーチ作


<血脇守之助碑>
  我孫子宿旅篭「かど屋」加藤家に生まれる。高山歯科医学院に学ぶ。のち同学院の経営を引継ぎ、「東京歯科大学」に発展させた。野口英世を物心両面から支えた事は有名である。

(2)手賀沼遊歩道
 手賀沼遊歩道は、手賀沼公園と水の館・親水広場を結んでおり、手賀沼遊歩道沿いには別荘風の高級住宅も見受けられます。みち沿いの若松住民ばかりではなく広く市民に愛し親しまれています。
(3)手賀大橋
  旧手賀大橋は昭和39年にはじめて開通しました。この橋は市川市で使用後の古資材転用のため、橋の長さには資材が不足し、両岸を埋め立てて付設されました。
  新大橋は平成9年8月に竣工しました。橋脚と照明灯は白鳥をイメージしたデザインになっています。橋脚は水の流れを良くするように工夫され、水質浄化に役立っています。橋の上からの眺望は素晴らしく、元旦には多くの市民がご来光を拝みに訪れます。
 秋谷半七は、「ここから見る日の出は湖心から眺める形となる。白みかけた東の空に赤味が射すとやがて太陽が昇る。朝靄に金色の光、粛々と昇る太陽、まさに荘厳そのもの。大自然の息吹を全身に浴び震えるような感動を覚える。やがて 陽が山の端を離れるとあらゆる草木はその輝きの中に平和がみなぎる。」と表現している。

絵 手賀大橋   高野瀬 恒吉

絵 初日の出  梅津一晴
(4)親水広場・水の館
  親水広場・水の館は、平成3年6月オープンした県営の公園施設です。水質浄化の理解を深め、環境保全のための催しを行います。展望台のドーム、全体が丸みのある水の館の建物は、屋根部を淡い緑色で覆っています。展望台からの手賀沼風景はすばらしいものがあります。

 <手賀沼のバードウオッチング>
  手賀沼の遊歩道は一周約20kmです。広々とした水面、季節によって移り変わるヨシ原や水田風景、周囲をぐるりと取り囲む斜面林・・・、遊歩道を散策するといろいろな自然が眼前に広がります。少々目をこらすと、その中に暮すさまざまな鳥たちの姿が見えてきます。
  手賀沼周辺をバードウオッチングすると30〜40種類、1年を通じて100種を越える鳥を見ることが出来ます。
  水田から湖水にかけて見られる鳥の主なものは、ムナグロ、コサギ、ヒバリ、カルガモ、バン、オオヨシキリ、ヨシゴイ、オオバン、カワウソ、コアジサシ、カイツブリなどです。斜面林のさまざまな木の実や昆虫は、冬を越す小鳥たちの大きな助けとなります。オオタカやノスリなどの猛禽は、斜面林の樹木が隠れ家になっています。キジ、コゲラ、ヒヨドリ、メジロ、ウグイス、ムクドリ、カワラヒラ、なども生息しています。
  春は、カモの群れは北帰行を始めます。やがてヨシ原が青々と伸び始める頃、カイツブリやオオバンは繁殖シーズンを迎えます。田植えの終わった水田には餌をついばむムナグロやキョウジョシギの群れを見ることが出来ます。夏は、オオヨシキリがヨシ原で一日中さえずっています。
  暑さがピークを迎える頃、ヒナに餌を運ぶヨシゴイがヨシ原の上を往来します。青空を舞う白いコアザサシがダイビングして小魚を捕らえています。ヒナを連れたオオバンやカイツブリの家族がヨシ原から姿を覗かせるのもこの頃です。稲穂の伸びた水田ではアマサギやチュウサギが餌を求めて歩き回ります。
  秋は子育を終えて夏鳥が南方へ去ってから、冬鳥の群れが飛来するまでの間は鳥の姿が最も少ない季節です。北海道で繁殖したショウドウツバメやツンドラ地帯で繁殖したムナグロが南下する途中立寄り、キビタキやオオルリなど山地で繁殖した鳥が渡りの途中に姿を現します。普段見かけぬ意外な鳥に出会えるのがこの季節です。
  冬は、水面のあちらこちらにカモの群れが浮かんでいます。1月、2月には最大2000〜3000羽を数えることが出来ます。カルガモ、オオガモ、コガモ、オカヨシガモ、ハシビロガモ、ミコアイサなどが群れの主なメンバーです。ヨシ原ではオオジュリンが、水田ではタゲリ、ヒバリ、タヒバリ、ツグミが見られるほか、コミミズクやチュウヒもしばしば姿を見せます。

<高野山斜面林>
台地西端の市役所北には6世紀後半の古墳高野山群、「水の館」東には5世紀後半の水神山古墳と隣接の香取神社、さらに東の台地にも日立総合経営研修所付近にまで古墳は分布しています。いずれも、手賀沼東部を望める景勝地です。
(5)水神山古墳
  市内最大規模、最古の古墳で高野山の斜面林の上、手賀沼を望む所にある。
  5世紀初頭〜前半の大変格式高いもので、畿内の前方後円墳に繋がる営造できちんと伝えられて出来ている。そして金塚古墳の小さな円墳に対し大規模で副葬品に武器が無いことから、水神山の首長は大和政権と直接、間接に一定の政治的関係を結んだことの現れであると考えられる。しかし、当時の地方首長の古墳に埋葬される大和政権から分与された鏡や碧石の宝器がないことを考えると、おそらく先進地域の上海上国(カミツウナガミ)・姉ヶ崎(現市原)の大首長を仲介した間接的な関係であったと考えられている。

絵 水神山古墳からの手賀沼   梅津一晴
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