100号のP10〜P14は当会の2012年9月〜2020年の歩み (年表)です

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吉澤 淳一(会員)
【出会い】
三樹荘のご当主、村山正八氏(故人)との直接の出会いは、平成17年の1月である。その2年前、平成15年秋の日立庭園公開で、「我孫子の庭園を考える」座談会に登壇していたが、その時私は顔を合せていなかった。平成17年1月にアビスタホールで第8回我孫子市景観賞表彰式があり、当会推薦の久寺家の森政義邸が受賞したので会員の高橋正美さん(当時副会長、元会員)、瀬戸勝さん(当時役員)と出席した。

式の後の講演に村山正八氏(以降先生)が登壇し、「あびこの景観を守る人こわす人」という演題で話をされた。先生は、歌人(せせらぎ短歌会主宰 雅号:祥峰)であり書家で郷土史家でもあった。話は、三樹荘の由来、そこに住んだお歴々(柳宗悦以降、最高裁長官の田中耕太郎、陶芸家の河村蜻山、作家の深田久弥など)から、由緒ある庭園、斜面林の維持、枝や落ち葉問題での近隣関係にまでに及んだ。当時既に92歳になられていた先生とご家族にとって、この庭園の維持は並大抵なことではないが、この景観を守るために日々頑張っているという話が私たちの胸を打った。

高橋さん、瀬戸さんとその場で相談し、何かお役に立つことはないか直接先生に訊いてみることにした。講演後、先生がご家族と一緒にすぐ近くの三樹荘に戻られたところで声をかけ、これこれしかじか素性を明かして、庭園の維持に協力したい旨申し入れ、後日改めて伺うことにした。

【発足】
出会いは立ち話だったので、あらためてお宅にお伺いした。三樹荘のすぐ近くに住んでいて、先生とは旧知の冨樫さんにもお出まし願った。会の紹介をしてから、新たにボランティアメンバーを募って、天神坂と庭内の清掃を協力したい旨申し入れた。先生は喜ばれ受け入れてくれた。
村山先生を囲んで、左から高橋さん、瀬戸さん、冨樫さん、村山先生、筆者
3月に入り会員募集を行った。募集は前年秋の日立庭園公開のサポーターさんの内、比較的三樹荘に近い住所の方を対象にした。3月22日、返事をくれた方の内、都合のついた10人ほどのメンバーを先生に紹介した。

この会合が三樹会の発足になった。会の名前は先生につけていただいた。週に1回少人数で、エリアは天神坂と庭内、清掃後のお茶は、四阿"あすなろ(安寿奈呂)亭"(4本柱があすなろの木)を使えるなどを取り決めたが、先生が一番強調したのは「細くても良いから長く続けてほしい」だった。この「細く長く」をモットーにしたことが、長く続いた秘訣であろう。

会と三樹会とは姉妹関係のようなものだが、三樹会会員は会員である必要はない。特に規則や会費は無く、敢えて緩やかな集まりにした。一応会長は私だが、シフトづくりや連絡などの実質的な仕切りは瀬戸さんにお願いした。瀬戸さんのお人柄が運営を和やかなものにしていったことは言うまでもない。リハーサルをやって4月から活動に入ることにした。

我孫子市緑のボランティアに登録して、清掃道具は市が支給してくれた。費用はほとんどかからないが、時折発生する僅かな通信費や印刷代は会に負担してもらっている。

村山家では、敷地内にお住いの先生の次女の典子さんがお世話をしてくれた。ご家庭のこともお忙しい中、毎回のお茶菓子の用意や瀬戸さんとの連絡等々今日まで続けてこられた。一同いつも感謝している。
【喜び】
活動はただひたすらに落ち葉を掃く。滴る汗が目に入っても、せっかく掃き集めた落ち葉が北風で吹き飛ばされても、椎の実の雨が降る中でも、ただひたすらに掃くのである。ここでは、みんなが掃く喜びに浸っている。
三樹荘の清掃風景

 やがて喜びは波紋のように広がっていく。由緒ある庭に入れて三樹(スダジイ:叡智・財宝・長寿)のパワーを浴びる、我孫子で最も美しい坂道「天神坂」(我孫子市景観賞受賞、我孫子のいろいろ八景"坂道八景"の一つ)を掃き清める、仲間との出会い、安寿奈呂亭での語らい、村山家からの心づくしのお茶とお菓子、新緑にむせび、紅葉に頬を染め、初冬から春にかけては囲炉裏で暖をとる(囲炉裏の火の番は瀧澤さん)、多少俗気が混じるが先生の軽妙洒脱なお話し等々、これが楽しみでみんな来る。この模様は多くのメディアで取り上げられた。
2005.6.21 毎日新聞

発足当初、祥峰先生が三樹会を詠んだ短歌二首を紹介しよう。

【先生と我孫子の出会い】
先生が此処に住まわれた頃の話を聴いたことがあった。
「初めてこの地を訪れたのは、昭和15年の事であった。東京に住んでいたが、この地方(東葛地方?)に興味があって、家内と沼南の箕輪辺りから手賀沼越しに我孫子を望んで、農家の小舟を雇って渡ってみた。そこが急な坂(現・天神坂)の下あたりで、坂はU字型に掘れていて上るのに難儀した。

坂上の3本の大きな椎の木がある無人の庭から見た手賀沼の景色に圧倒されて、しばし佇んだ。土地の事を知る方に、将来ここに住みたい旨告げておいた。その後大東亜戦争がはじまり、教員だった自分も応召され、戦後も東京に住んでいたが、昭和27年に念願の土地を購入することが出来た。実際に住み始めたのは昭和45年、我孫子の人口が約5万人になったころだった。」と語っておられた。
  爾来35年にして私たちは先生に出会ったのである。

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