吉澤 淳一(会員)
【思わぬきっかけ】
旧村川別荘活性化プロジェクトを進める中で、「手賀沼保勝会」という言葉に出会った。平成16年頃であったか。それは、村川堅固帝大教授の人脈を整理しているときに、忽然と私たちの前に現れたのだ。嘉納治五郎を始め錚々たる人脈の中に杉村楚人冠(以降楚人冠と記す)がいて、堅固は楚人冠が進める[手賀沼保勝会]の同志だったことがわかった。

ん?"保勝会"?メンバーが色めき立った。この言葉から漠然と景勝を保つ、の意であることは理解できたが、具体的な内容については誰もが無知だった。しかしその時は村川堅固を調べていたので、このことの研究は後回しになったが、後にこの「手賀沼保勝会」を紐解いたことが、「楚人冠のメッセージ」の発行に結び付いたのであった。

【プロジェクトの立ち上げ】
手賀沼保勝会の事を調べていくと、楚人冠が我孫子と手賀沼を愛し、手賀沼の保勝と干拓を阻止することに、如何に心血を注いでいたのかがわかってきた。彼は「我孫子風致会」も立ち上げていた。まさにこの会の先駆者そのものではないか。これだ、これをみんなで研究しようということになり、平成21年、プロジェクトチームが立ち上がった。佐々木哲明さん(故人)をリーダーに8人の有志が集った。ゼロからの出発、約2年半に及ぶ悪戦苦闘が待っているとは知らずに、みんな意気軒高だった。

【資料集め】
 プロジェクトは、楚人冠のお墓参りから始まった。(写真)


平成21年10月2日、有志が雨の八柱霊園を訪れたのは、楚人冠の命日「蝉噪忌」の前日だった。この活動は、故人の眠る地に跪き、その魂を感じるところから始めたらいかがと、メンバーの一人の発案で詣でたものだった。このことは、■34号に前田毅さん(元会員)が格調高く記している。是非読んでいただきたい。(嘉納治五郎の立派な墓がすぐそばにあって、そこにも詣でた)

楚人冠は真に我孫子の偉人であり、その多くの功績は人口に膾炙(かいしゃ)していることから、私たちはあくまでも彼が手賀沼を救った、その1点に絞って研究を進めていった。佐々木さんを中心に資料集めに精を出し、それは山のように集まった。資料収集及び解説では教育委員会文化課(現:文化・スポーツ課)の方々、特に歴史文化財担当の小林康達さん、今野澄玲さんには一方ならぬお世話になったものである。その資料を分類・整理し解析していくことは正に難作業であったが、少しずつ見えてきたのは、初めて1年後だったろうか。
【写真や絵】
明治・大正・昭和の我孫子を蘇らせた写真集「我孫子 みんなのアルバムから」には随分とお世話になった。みんなのアルバム同好会が平成16年に発行したものである(私も編集協力の端っこに加わっていた)。その中から貴重な写真を沢山見つけて掲載させていただいた。手賀沼の生き字引と称された深山正巳氏(元手賀沼漁業組合長 故人)と湖北台のご自宅でお会いできたことも幸いであった。

深山さんは高齢で手賀沼漁業組合組合長を辞された後であったが、床から起きて手賀沼について熱っぽく語っておられたのが印象的であった。寄稿文とともに、彼の作になる沼の漁や渡り鳥の絵、鰻を捉えた貴重な鰻鎌の写真も掲載できた。(写真)他のものと併せてこの冊子の価値を高めてくれたものである。
【手賀沼保勝会】
ここで、手賀沼保勝会について、これが肝なので述べさせていただく。
まず「保勝会」についてである。「我が国における風景づくりの実践の歴史的展開に関する研究」―保勝会の活動とその理念に着目してー、という論文を最近見つけたので一部引用する。(保勝会は)明治中期から昭和初期をピークに全国的な設立をみた、主に史蹟を保存する団体としてうまれた保勝会(「名勝」を「保存」する団体)があった。これら保勝会の中には、今日もなお活動を継続しているもの、さらに戦後新たにうまれたものも、少なからず存在する。保勝会はわが国における地域の民間まちづくりの先駆的存在であったと同時に、当時を端緒とする自然的・歴史的環境や文化的な風景の保全・育成に関する「保勝」理念が、時代を越えて今日的意義をも豊かに含むものであった。
(中略)
本論文では、風景づくりの先駆者ともいえる保勝会に着目した風景づくり運動の展開を戦前期を中心に追うことによって、まもるべき風景という概念、つまり風景観がいかに生成し、時代と共に変化してきたのか、また郷土風景をまもり育ててきた市民による風景づくりの実践の蓄積が、いかに地域に根付き、まちづくりの布石となっていったかを明らかにし、今後の風景づくりの実践の担い手としての市民はいかにあるべきかについて、示唆を得ることを目的とする。(※当会の在り方を考えると大変示唆に富んでいる)

筆者は、土井祥子。東大工学部都市工学科卒、同大学院修士課程修了、(財)日本ナショナルトラスト主任研究員、市民活動による自然文化遺産の保護管理事業や調査事業等に携わる。(1979年生まれ)「観光まちづくりーまち自慢から始まる地域マネージメント」の共同執筆者でもある。大学院、専攻、修士課程、年齢ともに元会員の今川俊一さんや戸田聡一郎さんとほぼ同じと見受ける。

楚人冠が「手賀沼保勝会」を立ち上げたのは、大正15年。趣旨は、
一、風光明媚の遊覧地として将来の発展が期待される、
二、東京に至近の別荘地としても住宅地としても最適の地である、
三、鰻他の美味なる淡水魚の産出の地である、としている。大正初期、手賀沼の大規模干拓計画が立てられたころから、彼は東京朝日新聞への寄稿等を含めて干拓反対運動を展開したとある。計画反対陳情書も残っていた。村川堅固、嘉納治五郎、大谷登(当時・日本郵船社長)、吉田甚左衛門(当時、柏市吉田邸の当主)などの名がある。

我孫子市"鳥の博物館"で1枚の名前の寄せ書きを見つけた。(写真)日本野鳥の会の設立発起人のものである。12名の中に杉村廣太郎の名がみえる。こういう活動もしていたのである。

【コンセプトは百年】
膨大な資料の中から、楚人冠の珠玉の一文を見つけた。
 『この沼を埋め立てたり、干しあげたりして舊形(きゅうけい)を破壊するようなことがあったら、それこそ百年の悔いを遺すもので、我々は後世我孫子から怨まるるに決まって居る』(原文通り)

これは今から90年前の昭和4年(1929年)4月6日、東京朝日新聞房総版に掲載された記事の一節である。これを読んだ時、私の身体に電気が走った。これで発表する成果物のコンセプトが決まった。"手賀沼の百年前―百年後"である。"百年"は時間軸の一つの象徴であるが、本の最初に来る「はじめに」の書き出しは、この楚人冠の一節に決まった。

(■次ページへ続く)
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