― 我孫子の歴史景観を探る ― その(2)
"鎌倉道"遊歩道 とその周辺の散策
(新木〜湖北駅間の距離; 約4km)
名所解説

T.新木駅北口からの鎌倉道
(1)新木野2-1-67海老原宅のタブの木 (右写真)
●タブの木はルートから少し離れた、郵便局入り口交差点右側にあります。

 市が指定した保全樹木です。
 タブの木は海に近いところに多いクスノキ科の常緑高木で、一名イヌグスとも呼びます。指定樹木の中では少ない種である。
(2)新木(沖田)の椎の木(スタジイ)   (左スケッチ)
●新木駅北側には、椎の木の大屋敷林が東西数100mに渡って繁茂し、楡と椋(ムクノキ)の大樹もあります。最も古い木は幹回り3.9mもあるそうです。

 高田三郎さんによると、明和年間に植えられたもので二百年以上経っているといわれます。駅を出て間もない左手には、田村利幸宅氏神様の御神木が見事な枝振りを見せてくれます。

 屋敷林の西端は、今沖レンタカーさん宅付近で、そのすばらしい大樹林は356線から眺められます。また、356線北側の幼稚園隣、新木野1丁目2-24の豊島氏宅にも、大樹の保全樹木の槙(マキ)があり、その繁みは遠くから目立ちます。
(3)葺不合(ふきあえず)神社と新木城址 
●葺不合(ふきあえず)神社の祭神は◆(う)が草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)です。古事記や日本書紀に伝わる山幸彦の神と海神の娘豊玉姫(とよたまひめ)との間に生れた神で、神武天皇の父に当ります。
 山幸彦が姫のため海辺に◆(う)の羽で屋根を葺いた参屋を造ろうとしたところ、葺き終えぬうちに生れたために命名されたと言われます。
右写真は葺不合(ふきあえず)神社の参道です。
◆(う)の字は
※ブラウザの基準外文字です

●ここは、平安時代1186年に創建された厳島神社の地で、市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)が奉られていました。
明治41年に行なわれた合祀で、葺不合(ふきあえず)神社は奥に配置されました。
 本殿前の拝殿は、明和年間に弁天堂として造られました。この弁天は沖田弁天と称され、江戸時代には、柏市の布施弁天と並ぶ弁天信仰の地であったと言われます。ほかに道祖神、水神社等も見られます。
 葺不合(ふきあえず)神社本殿(右写真)は、文化財的価値のある必見の社殿である。

 明治30年2月の建立で、大工は新木村田口末吉、彫刻師・北相馬郡北方: 現龍ヶ崎の後藤藤太郎等によって造られた。
●本殿正面扉は弓を携えた神功(じんぐう)皇后と平伏する住吉大神(すみよしおおかみ)の木彫、向拝柱(こうはいばしら)は右柱に亀、左柱に八岐大(やまたのおろち)蛇が彫られている。
右写真(東壁面)は、弟の素戔鳴尊(すさのおのみこと) が八岐大(やまたのおろち)蛇(賊)を太刀で滅ぼす木彫。
右写真(背面)は、"天の石屋戸"の木彫。

鶏、庶民、天狗が見守る中で天宇受売命(あめのうずめのみこと)が舞っている様を、天照大神が岩戸から覗いたところを、天手力男(あめのたじからをのかみ)が力一杯岩戸を開いた。
●左写真(西側壁面)は神武天皇が従者を引き連れて、山河を越えて進む東征の木彫。 

 参道は、いかにも神が 鎮座すると思われる大樹森の中を通ります。 銀杏(2本)は市指定保存樹木です。 また神社向い新木2557田口宅屋敷林の欅(けやき)も市の保全樹木として指定されている。
●新木城は、2つの小さな谷津に囲まれた神社の裏山の畑地、新木字五郎地にあったとされ、相馬氏の臣荒木三河守胤重が居城した。元和8年(1622)の則胤覚書よると、相馬則胤は新木の住人で、14世紀南北朝(鎌倉〜室町時代中間期)の戦乱時に宮方・武家方に分かれて戦い、それがために一族は滅断したという。
 「東国闘戦見聞私記」には、三河守配下であった田口内蔵之助の戦記が載っている。現在の新木の田口家はその後裔という。 このような地に古墳後半・歴史時代(8世紀後半〜10世紀中葉)の五郎地遺跡がある。
(4)羽黒前館址
●羽黒前館址は、縄文・歴史時代包含地である羽黒前遺跡の中にあり、市内で最大規模の奈良・平安時代の大集落と見られる。
 この館址は、手賀沼を望める新木台地の西端の位置で平成5〜7年の発掘調査で発見された鎌倉〜室町時代の居館址である。調査では、二重の堀跡、堀立柱の建物跡と多数の土壙が発見され、堀に囲まれた方形の館跡であることが分かった。
 またこの館址からは、墨書土器多数と官人用の腰帯金具7点も出土し、歴史的な遺構の上に構築された建物であることが分かった。居館の時期は特定が難しいが、室町時代ともいわれる。記録・伝承はない。
 近くには遺跡公園があり、 西側に近接して6世紀後半前方後円墳の羽黒前古墳もある。
(5)香取神社
●神社は大樹の"鎮守の森"に囲まれていて、"鎌倉道"遊歩道出入り口のモニュメント(目印)になっている。
 高生垣のある農家、椎の木(スタジイ)の大樹屋敷林、大切な自然景観が温存されている地区である。香取神社の杉(14)は市の保全樹木として指定されている。

(左スケッチ)
鎌倉道沿いの"森の家"
右スケッチ
(7)香取の井戸と椿                 
●遊歩道途中、新木常敷堤東側谷津沿いの道を50m程下ると、民家の脇に一辺が3間余りの古い堀井戸の池がある。香取神社の井戸であったが、今は半分埋没し窪地になっていて湧水は見えない。周辺に幹周りは約1mもある椿の古木が数本植えてある。 (下スケッチ)
(8)「将門の井戸」 は将門神社に相対する位置にある。
●承平2年(932)将門が開き軍用に供したと伝えられている。中相馬7村毎にあった井戸のひとつ、「石井戸」とも言う。
かっては手賀沼を望めたであろう東斜面の上には掘込古墳がある。 (下スケッチ)
(9)将門神社
 将門神社は、手賀沼を眼下見下ろす丘陵にある。隣接地に将門公園緑地がある。 
北側に日秀宮前古墳があり、古墳時代後期の竪穴式建物7、溝1が確認されている。 (下スケッチ)
(10)将門の丘からの手賀沼干拓水田
日秀宮前古墳のあった丘からの風景である。古墳の地からの風景は広大で素晴らしい。当時の手賀沼は水を湛えていたのである。 (下スケッチ)
(11)千間堤からの新木 (下スケッチ)
●千間堤は享保(1715年以降)の新田開発当時の名残。
 手賀沼を横断して対岸の沼南町布施明神下まで延長千間(1800m)あるが、その堤防の一部は現存する。布佐浅間台下からの堤であるため浅間堤ともいう。
 また築堤に私財を投じた江戸の豪商高田友清の名をとり高田堤ともいう。 しかし完成10年後(1738)、上流農民との水の争いがもとで、洪水時に上流農民が千間堤を破壊したとも伝えられている。
(12)日秀西遺跡
●県立湖北高等学校の地に位置するこの遺跡は、先土器時代から縄文・弥生・古墳・そして歴史時代まで長い期間に亘る複合遺跡です。縄文・弥生時代の住居跡10、古墳後期〜奈良〜平安時代の180に及ぶ集落跡と官衙(かんが)の正倉が発見されています。
 正倉跡からは当時の貨幣、和銅開珎(わどうかいちん)という銀銭、瓦、多量の炭化米が見つかっています。その意味でこの地は我孫子発祥の地といえるでしょう。
 特筆すべきは建物跡から和同開珎の銀銭が発見されたことです。その建物群は規模から想定して役所跡と考えられます。また我孫子付近と考えられている倉麻郡意布郷(おぶごう)(相馬郡於賦郷)に、大初位下の位階を持つ下級武官が存在していたという戸籍記載があります。正倉跡は湖北高校の中に保存されています。
 そして日秀西遺跡の周辺1.5kmの範囲には、チアミ、野守 、君作、兎尻、兎尻古墳、羽黒前、大久保、高根、原など「相馬郡於賦郷」と見られる集落遺跡があり、下級官人の住んでいた所と考えられます。
日秀西遺跡平面図 ■拡大 住居跡からの出土状況写真
(13)諏訪神社
●この諏訪神社境内の樹林はマサキ(正木)、(樟(くすのき))、モッコク(木こく)、白樫(しらかし)、藪椿(やぶつばき)、栂(つが)、スタジイ(椎)などに、皆名札がついていて楽しい。
これらの内のスダジイ(9)と白樫(しらかし)(2)は市が指定の保全樹木である。
諏訪神社の栂(つが)の大樹
平成17年9月 文責・梅津
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