― 我孫子の歴史景観を探る ― その(2) "鎌倉道"遊歩道 とその周辺の散策 (新木〜湖北駅間の距離; 約4km) |
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U 成田街道北辺〜鎌倉道の周辺 |
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(1)竜崖(布佐)城址 ●団地を造るため山地がすっかり崩されてたため、今は以前ここに山があったと思い描く術もないが、秋田酒店のおかみの話では、店の裏一帯は東端を頂上とした標高20m程の東西に伸びる「りゅうげやま」であったという。 この山は独立した島になっていて周囲の谷津の田や道を見渡せたという。戦国時代は四方が沼地の小島であったため、そんな立地を選んで竜崖城は造られたのであろう。水軍拠点であったかも知れない。"鎌倉道"は新堀ビジネス専門学校の西側の坂から元気象送信所を横断した後、この竜崖城を西に見ながら江蔵地を通ったとされている。 「古戸村十二窓三本足稲荷」の話では城主は栗巻弾正と言い、天慶の乱(939)の時に守谷城で戦死した。留守役の弾正の妻は家宝の龍貝を抱き利根川に入水し落城した。 後の城主は、布佐城主とも言われる豊島氏と伝えられ、出土品は豊島氏の菩提寺布川来見寺にある。城跡からは鎌倉末期元亨二年(1322)の板碑が出土している。昭和40年頃には土塁、空堀跡があった。 また「あびこむかしむかし」によると、元亀・天正の間に田部主水という人がいて千葉氏に属して威勢を張っていたが、天正13年(1585)に牛久城主岡見中務、布川城主豊島勢に攻められて落城し、豊島氏に属したという。 |
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●観音寺のイヌ槙(まき)、将門神社鎮守の森の槙(まき)、スタジイ、 日秀262増田宅屋敷林の欅(けやき)、日秀253高島宅の槙(まき)、榎(えのき)、日秀280増田宅のスタジイ、新木2652田口宅の"久太夫のかやの木"合計7本の大樹木は、市指定の指定の保全樹木である。 周辺一帯は緑豊かな樹林帯になっている。 田口氏宅の栢(かや)の木は樹勢が衰えているが巨木で、幹周り480cm、樹高約20mである。田口久太夫氏は新木城主の配下田口倉之助後裔といわれる。 |
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(6)チアミ遺跡 縄文時代包含地。古墳時代後期。奈良〜平安時代の竪穴建物、溝多数と井戸、日秀西遺跡に関連すると見られる官衙(かんが)遺構がある。 |
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平成17年9月 文責・梅津 | ||||||
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