吉澤 淳一(会員)
【きっかけ】
前述(■95号回顧録4)の市民活動元気づくり事業の報告会(平成16年)席上、福嶋市長(当時)から、旧村川別荘に人が来るように考えてくれないかと依頼された。突然の申し入れで戸惑った。そもそも、私たちは旧村川別荘の事をよく知らなかった。市長からは、日立庭園公開や市民観桜会を上手く立ち上げたのだから、そのノウハウを活かしてくれないか、と言われた。私は、いやいや上手く立ち上がったのは、両方とも会場が良かったのですと答えた。市長は、あそこ(旧村川別荘)も会場はいいのですよと言われたので、もう引き下がれなかった。

当日の報告が上手くいったのと、これまでの実績が評価されたのも手伝って、勢い引き受けてしまったが、さあそれからが大変だった。まず、杉山市民活動支援課長(当時)に、これは発注ですかボランティアですかと問うと後者だという。頼りにされているという自負心もあって、それを飲んだ。

旧村川別荘は、平成のはじめ頃に村川家から我孫子市に移管され、我孫子に現存する唯一の別荘建物(2棟)を含めて教育委員会の管理下にあり、市の指定文化財である。当時、公開は週2〜3日だった(今は月曜日のみ休館)。市長から話があってすぐに、教育委員会文化課長さんに挨拶に赴いたが、話が伝わっていなかったようで、「あっそう」という感じで、これは当面自力でやるしかないなと思った。

【アプローチ】
翌年にプロジェクトチームを作って、旧村川別荘の事はもとより、村川堅固帝国大学教授・堅太郎東京大学教授父子、当時の我孫子の別荘文化、両教授を取り巻く我孫子での人脈、西洋史学・・・・みんなで片っ端から広く浅く勉強した。

「衣・食・住」という言葉があるが、村川堅固は「住・食・衣」を唱えていて、「住」を一番重視していることが分かった。目白台の住居(堅太郎氏の長女夏子氏夫妻が今でもお住い。文京区指定有形文化財)を数度訪れ、我孫子の他に2カ所あった別荘(南房総、湘南藤沢)の内、藤沢市鵠沼の別荘跡地(公園)もみんなで訪ねた。そんなこんなで多分に付け焼き刃的であったが、市民にアピール出来る内容は整った。

平成16年の12月には、会独自に作成した活性化基本計画案を市長にプレゼンした。構成は、民間企業が新商品を世に送り出すときのマーケティングの伝統的手法である「AIDMA」を使った。Attention(注意を喚起する)Interest(関心を呼ぶ)Desire(欲求を起こさせる)Memory(記憶させる)Action(行動させる)の5段階でこれを応用した。旧村川別荘をこれから市場に出す新製品として捉えたものである。若手会員、今川俊一さん(東大大学院卒、都市工学専攻、元会員)がロジカルにまとめてくれて、大いに助かったものである。提案は市長に了承された。
ここで、教育委員会文化課(現:文化・スポーツ課)の精鋭2人に出会った。辻史郎さん(現:文化・スポーツ課 主管兼白樺文学館・杉村楚人冠記念館館長)と工藤文さん(現・商業観光課 課長補佐)である。この方々との出会いによって、協力関係が飛躍的に進展した。

市民の耳目を集めるために、「旧村川別荘の謎に迫る」という、わざとオーバーな表現にした展示会を市内各所で開催した。これでAIDMAのAIDMまで一気に駒を進めた。早速朝日新聞が大きく取り上げてくれたのは百人力だった。


【市民ガイドの誕生と、独特のガイドの仕組み】

さて、最後の"A"は何か。市民に旧村川別荘に来てもらうことである。それには"ガイド"さんを置こうというもので、平成18年10月、文化課で公募したところ、すぐさま10数人の応募があった。「旧村川別荘市民ガイド」の誕生である。

辻さん、工藤さんと相談して、ちょっと変わった仕組みのガイドにした。それは画一的なガイドではなく、なるべく来場者のニーズに合わせたガイドを心がけようというものであった。基本的な事柄は時間をかけて勉強したら、あとは建物、歴史、自然、我孫子の別荘文化、堅固・堅太郎父子など、自身が関心のある分野を掘り下げて、来場者とおしゃべりをする感覚でガイドをしていくというものである。

この人はここに何を求めてきたのだろう、それらをさりげない会話の中から感じ取って解説に繋げていく。なんとなく来てみたという人には、またそれなりの接し方があるもので、このあたりが此処のガイドの醍醐味である所以だ。

当初は年間400〜500人の来場者が、今では4,000〜5,000人になっていて、AIDMAは見事に成功した。
当時の朝日新聞 ■拡大
現在、会はシフト表のまとめを担っている。会からも数人ガイドになったが、今では瀬戸さんが名ガイドとして頑張っている。一部のガイドさんには、会の活動にも参加してもらっている。
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